飯田隆「展望 言語論的転回の世紀の後で」(『岩波講座哲学03言語/思考の哲学』岩波書店2009年p. 1-12)
内容
一 言語論的展開と言語哲学
二 自然哲学の哲学的探究
三 ウィトゲンシュタインの影
評者による要約
言語論的転回のもとでの哲学は次の二つの主張によって特徴づけられる。一つは「哲学の問いは、言語の論理の誤解から発生する」であり、もう一つは「哲学への問いへの答えは、言語的な事柄についての考察を通じて得られる」である。第一の主張に関係する哲学は、二つの言語哲学に分けることができる。一つは本来の言語哲学であり、指示、真理、意味についてのアプリオリで理論的な研究である。これには、フレーゲ、ラッセル、タルスキ、クワイン、クリプキ、パトナムらの業績が含まれる。もう一つは哲学的言語学であり、自然言語についての必ずしもアプリオリでない研究である。これには、オースティン、グライス、ストローソン、モンタギュー、デイヴィドソン、チョムスキーらの業績が含まれる。言語哲学は本来、言語の本質に対する論理的な探究であったが、哲学的言語学は経験的研究としての言語学と区別がなくなりつつある。第二の主張に関係するのは、ウィトゲンシュタインの哲学批判である。ウィトゲンシュタインは哲学が科学をまねることを批判した。今日の言語哲学も批判するだろう。科学的でない思考のスタイルが可能か、また哲学に必要かという問題をウィトゲンシュタインは現在も提起している。
評
20世紀の言語哲学の概観としては正確だと思う。付け加えたいことはあまりないが、次の三点を指摘しておきたい。
第一に、言語に対する哲学的研究は、多くの哲学者がアプリオリなまたは非経験的な知識を求めたために主流となったのではないか。おそらくフレーゲは元来数学者であって、自然言語の推論が備える形式的な構造をとり出すこと自体に大きな価値を見出していたと思われる。しかし、その後の言語哲学者たちにとっては、20世紀科学の飛躍的な発展を横目にしつつ、経験的でないが科学的知識に匹敵する信頼性の高い知識を得られる対象領域が必要だったはずである。19世紀的な観念論や新カント派の崩壊によって、彼らの多くは言語に依らざるを得なかった。これが正しければ、その意味で20世紀前半の言語哲学は19世紀以前の哲学を受け継いでいる。この事情が言語論的転回の原動力になっていたと考えてよいのではないか。
第二に、したがって、20世紀後半の哲学的言語学における経験的知識への転回は、飯田が
考える以上に重要ではないだろうか。というのも、これは少なくともカント以来のアプリオリな知識あるいは権利問題への哲学者の伝統的な嗜好が、そこで初めて変化したことを意味しているからである。さらに、それ以来いわば哲学の経験(科)学化は今日まで強まる一方である。言語哲学だけでなく、心の哲学、行為論、認識論、そして存在論(いわゆるオントロジー)などまで、隣接する経験科学(人工知能や情報科学、脳科学、進化論等)の知見をまったく踏まえないで議論することは不可能になっていると言ってよい。この地点から振り返れば、初期の言語哲学の文法や意味論研究は、現実の人間がどのように言語を処理しているかの大まかで遠回りな研究であったと思われるほどである。
2009年06月16日
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