2009年11月02日

ウィトゲンシュタインと現在 (関口浩喜「ウィトゲンシュタイン的観点から」)(2)

(後期ウィトゲンシュタインと明晰さ)
しかし、後期ウィトゲンシュタインは再び哲学をはじめることになる。なぜ、前期の断念によって哲学は終わらなかったのであろうか。ウィトゲンシュタインはより根源的な哲学の衝動を見逃していた。つまり、「言語の背後を探りたい」という衝動である。この衝動が封じ込まれ断たれたとき、真の意味でのウィトゲンシュタイン的観点が確立し、それまでとは別の意味での「哲学的な」探求が開始された。後期ウィトゲンシュタインにより推奨されている方法によれば、哲学者たちに「許されている」のは、理論の構築や説明の提示ではなく、「言語の実際の使用を記述する」作業だけである。ウィトゲンシュタインは説明なくこれらを提示している。しかし、これらこそウィトゲンシュタインがもう一つの衝動を絶ったことを示す、今度こそ本当の「唯一の厳格に正しい」哲学の方法なのである。ウィトゲンシュタインは「言語の実際の使用の背後に隠れているものを探り、それによって言語の実際の使用を説明したい」という哲学の衝動を抑えこむよう訴えている。前期ウィトゲンシュタインは命題の論理形式という「隠されているもの」を見つけ出し、それによって、言語によって世界について語れるのはいかにして可能なのかを説明しようと試みた。しかし、後期のウィトゲンシュタインは「断念」に訴えていない。前期の「語ることの不可能性」に対して、後期は「説明することの不必要性」を主張している。後期ウィトゲンシュタインが「目指している」のは「まさしく完全な明晰さ」であり、言語の実際の使用を完全に明晰に見てとれば、その背後を探り分析することによってそれを説明したいという衝動が完全に消滅するから、「哲学的な諸問題は完全に消滅する」。説明したいという衝動から解放された哲学に残される作業は、言語の実際の使用を記述することだけである。前期ウィトゲンシュタインは言語の限界をはっきりさせるという意味での明晰さを追求した。しかし、後期はゲームという「輪郭のぼやけた概念」を例にとった。後期で追及されている「完全な明晰さ」とは、Übersichtlichkeit(一目瞭然に見てとれること)、すなわち「語の目的と機能とを一目瞭然に見てとること」である。このような観点からすれば、哲学的な理論も説明も「空中楼閣」である。

(ザラザラした大地と具体的な事例)
『探究』の「ザラザラした大地に戻れ」の箇所(107節)は、「滑りやすい氷上=理想言語」、「ザラザラした大地=日常言語」と想定された上で、ウィトゲンシュタインは理想言語から日常言語に回帰したと解釈されている。しかし、その解釈は真の意味を見逃している。ウィトゲンシュタインは草稿MS152で「ザラザラした大地」以外に「具体的な事例」と「実際の事例」という二つの表現を挙げている。「具体的な事例に戻れ」を手がかりにすると、「滑りやすい氷上」とは「具体的な事例が挙げられない領域」だと解釈できる。前期ウィトゲンシュタインは具体的な事例を挙げられない領域に出てしまい、哲学的な探究を進められなくなった。それを進めるために、ウィトゲンシュタインは具体的な事例を必要とし、「具体的な事例が挙げられる領域」へ立ち戻ることを、『探究』107節で述べていたのである。しかし、他の哲学者とは違い、ウィトゲンシュタインにとっては具体的な事例を挙げることがすべてであった。「具体的な事例から立ち去ることを強いる」力に抗していた。

「具体的な事例から立ち去ることを強いる」という力がはっきり現われているのはプラトンのテキストであろう。「勇気とは何か」という問いに、具体的な事例を挙げただけでは答えたことにならない。プラトンは、「具体的な事例」を挙げただけでは答えにならないような問いと探究を、すなわち哲学を創始した。前期ウィトゲンシュタインは、プラトンの設定した哲学の忠実な、そして徹底した遂行者であった。しかし、その道筋を極限まで歩んだとき、そこはもはや哲学的探究を行うことのできない地帯であった。ウィトゲンシュタインは再び哲学的な探究を先に進めるために、具体的事例の存在するザラザラした大地に帰還した。「ザラザラした大地」とは「言語の実際の使用」の現場であり、「摩擦なき氷上」とは「言語の背後」の領域、すなわち、言語の実際の使用を説明するために、具体的な事例から離れ、それを一般化することよって前期ウィトゲンシュタインが到達することを目指していた領域である。『探究』でウィトゲンシュタインが説明を排除し、記述で置き換えることを訴えたのは、言語の実際の使用の背後を探り、それを説明したいという衝動と探究の果てにあったのが、「摩擦なき氷上」であり「まったき闇」であることを彼自身が味わったからである。「ザラザラした大地に戻れ」は、言語の実際の使用の現場に戻り、哲学の力に抗して、そこに留まることの訴えである。
posted by 三好 at 06:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして大絶画と申します。
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投票ページへはURLからアクセス可能です。投票にご協力ください。
なおこのコメントが不適切と判断されたら削除していただいてかまいません。
Posted by 大絶画 at 2010年09月24日 17:04
コメントの通知メールがなぜか来なくなっていたので、長い間気がつきませんでした。失礼しました。
Posted by 三好 at 2011年02月16日 08:07
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