2011年06月24日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(19)

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なお、細かいことだが、著者の日本語表現についても気になるところがあった。それは著者の文章表現には、以下のようなやや読みづらい特徴があるということである。

一つは、「とはいえ」という接続詞を文の先頭ではなく、途中に埋め込むことである。例えば、「この稿では、とはいえまずは日常的な他者のあらわれから問題としてゆくことにしよう」(p. 162)。単語の分かち書きをしない日本語の文章では、接続詞や文副詞などは文の最初に置くのが最も読みやすい。逆接の接続詞ならば、なおさらそうである。

二つ目は、かな書きが多いということである。繰り返せば、日本語の文章では単語の分かち書きがないので、名詞と動詞の語幹には漢字やカタカナを当て、助詞・助動詞と動詞の活用語尾はひらがなにした方が読みやすいだろう。また、漢字の音読みの副詞(「つうじょう」など)も漢字の方が識別しやすいのではないか。

三つ目は、もってまわった婉曲的な表現が多いということである。例えば、「道具連関はほんとうに関係のなりたちを告げているのだろうか」(p. 167)である。(「連関」と「関係」についてはすでに触れた。)「xがyのなりたちを告げる」とはどういうことだろうか。また上で検討した「神を意味する絶対的に他なるものという名が、むしろ具体的な他者について語られる」(p. 180)も同様である。「xという名が、yについて語られる」なら、x = yが成り立つのだろうか。これらの点は、思考の曖昧性を示しているのではないかと疑われるところである。(さらに、本論文には出てこないが、日本を指示するのに「この国」という表現を使うのも、あまり読みやすくない。「国語」や「国史」で日本語や日本史を意味する古い慣習を受け継いでいるようでもあり、また「この国」が自明的に日本を指示する地域に住む人々しか読者として認めていないかのようでもある。)

四つ目は、いくつかの節の終わりになって「そうなのだろうか」(p. 171)や「そうだろうか」 (p. 175)、あるいは「とはいえ、……どこか見落としがないだろうか」(p. 166)というように、突然これまでの論述を否定する展開になっていることである。これはかなり読み進めにくいし、その上、その節の厳密にどの主張が生き残って結論へ論理的につながっているのかがよくわからない。(というより、著者にしかわからないだろう。)あるいは、もしかして、これが論述における「息切れ」なのだろうか。

五つ目は、いくつかの議論が、「まわりに」(「ウム」とルビ)(p. 164)や「まなざすこと(regarder)」(p. 170)というように、ドイツ語やフランス語特有の表現の形や意味に依存していることである。これは日本語上で読みにくく説得力がないだけでなく、特定の自然言語の特徴に依存した推論から普遍的な結論は得られないのだから、避けるべきである。

これらの点は、簡単な工夫で改良し読みやすくできるところだろう。他者としての読者に対する配慮がもっとあればよかったように思われる。


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posted by 三好 at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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