2011年06月24日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(18)

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他者の超越性との関連で著者は、本論文の最後で次のように確認している。


じっさい、他者をまえにしていったんは黙し、ことばをえらび、ことばをつなぎつづけるとき、言われようもないもどかしさを覚えるそのときに、ひとはだれしも、他者をその他性と超越において経験しているはずなのだ。(p. 180)


しかし、この主張は明らかに間違っていると私は考える。理由は次の通りである。

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第一に、<わたし>が他者を前にしてもどかしさを感じるとき、それは他者が(<わたし>を?)超越しているからではなく、<わたし>の思いつく言葉がどれもその他者には十分正確に理解されないだろうと<わたし>が予想するからである。誰が神(像)や仏(像)を前にして祈りの言葉をもどかしく思うだろうか。相手は<わたし>同様の有限な知性を持つ存在に過ぎないと考えるから、<わたし>はもどかしくなるのである。このことは、<わたし>が他者の立場に立って判断していることを意味している。つまり、このとき<わたし>は他者を<わたし>と対等な主体として扱っているのであり、ゆえに「他者をその他性と超越において経験している」のではないと言える。

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第二に、他者は経験不可能だからである。哲学的な意味で<わたし>が経験するのは、つまり感覚または知覚するのは、他者の身体や発話である。また、日常的な意味で「何かを経験する」という表現は、さらに違う意味になるだろう。例えば、「彼は宇宙旅行を経験した」というように。この意味で「<わたし>は他者を経験する」と言えるなら、それは逆に、他者は超越していないということを意味するだろう。これらの点から、何においてであれ人は他者を経験しているという著者の主張は正しくないと言える。

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それに加えて、これは素朴な感想だが、仮に他者が本当に超越しているとしても、しかしそれは経験や自然現象によって示される事柄ではないのではないか。もちろん、これは「超越」の意味次第であろう。しかし、経験(より厳密には、日常的な経験)によって知られることを「超越」と呼ぶのは、超越のインフレないしはバーゲンセールみたいなものではないかという気がする。もう少していねいに言い直せば、本論文の「超越」は単に相違性やコミュニケーション困難性の程度が中間的な状態(人と物の関係より小さくて、自分と自分の関係(同一性)より大きい)を意味するだけではないかということである。

以上の議論により、著者の他者論には、身体との関係およびコミュニケーションとの関係においていくつかの疑問点があり、十分に説得力のあるものではないことが示されたと私は考える。
posted by 三好 at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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