2011年06月24日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(17)

(以下は本論文に対する主観的な印象に基づく論評である。本論文はここまで論じてきたように他者論としてはやや無理が多いが、しかし、日本的社会論または国家論として読むと全体が見通しやすくなる。著者が神と他者を並べるところで日本的な八百万の神々を念頭に置いているならば、具体的な他者を神と同視するのもおかしくない。その場合、「絶対的に他なる」は、神棚に祀られる側と祀る側の違いに近いものを意味するだろう。そして、神としての他者同士が互いに他であり超越し合うこともそれほど不思議ではなくなる。(和辻哲郎が「祀り祀られる神」について論じていたことに、著者も他の著作で触れていたはずである。)著者が他者の例として死につつある人を繰り返しあげることは、死んだ人は神になるという日本的な神観と一致するだろう。「二度と会うこともないだれかに訣れを告げる」例も、おそらく著者自身にも無自覚な、死別の隠喩であろう。というのも、二度と会うことのない別れの後でも、現実的には携帯電話や電子メールやSNSなどで、国際宇宙ステーションやグアンタナモ収容所などの限られた例を除けば、地球上どこにいる人とも連絡がすぐ取れるし、会おうと思えば会えるからである。また、著者の他者像は折口信夫の「まれびと」のようにも見える。さらに、他者の身体が痕跡に過ぎないという主張も、神社のご神体がしばしば石や木のような何でもない自然物であることと対応しているかもしれない。さらに、「息切れ」によるコミュニケーションの描写は日本的な真心観のいわば変奏にも思える。

あるいは、本論文は「他者」で天皇を意味しているのかもしれない。著者の言う「<わたし>」とは、著者本人だけではなく不特定の人を意味している。そのような<わたし>にとっての他性そのものであり、超越する神でもある他者とは、まさに天皇のことだと解釈することも可能だろう。(露骨な言い方をすれば、本論文における<わたし>とは「私」つまり私的な主体または個人ではなくて、国民ないし臣民の一構成要素なのかもしれない。というのも、著者の描く社会像では、それぞれの<わたし>は私性を持たず、他者ではないものとして一律に規定されるように見えるからである。)そうすると、本論文の議論は今日の脱神話化された日本社会または国家に天皇を理論的に位置づけようとする作業だということになる。このように考えると、著者が他者の複数性をまったく論じない理由も、<わたし>と他者の関係が一方通行的なものである理由もはっきりする。また「神を意味する絶対的に他なるものという名が、むしろ具体的な他者について語られる」という表現の曖昧さは、今日の天皇の神と人間との間の曖昧さに由来するものと解される。

これらの点は、いずれの場合にせよ、著者の他者論が和辻哲郎の倫理学を思わせることと符合するようである。すなわち、著者は他者を主体性や精神性ではなく、<わたし>との差異という一種の関係に還元しているが、これは人間の基本的なあり方を主体や個人よりも間柄に求める和辻の考え方に類似している。いわば、父子、夫婦などに続いて自他という六番目の常ないし倫を定めたわけである。(あるいは君臣に代わるものと見てもよい。)それに、電車に乗り合わせた他の乗客への関心(参照、p. 170)は、ベネディクトの言う恥の文化の現れのようでもある。(そこで<わたし>の他者への関心は他者のまなざしへの関心であり、それは<わたし>のふるまいが他者に変に思われないかという心配によるものであったと読める。)この観点からは、本論文は神や天皇を超越的他者として社会的関係または国家の秩序の中に位置づけることによって、伝統的な日本社会または国家を一つの全体性として再興する理論的な試みだと評し得よう。日本思想に詳しい読者には、本論文はハイデガーやレヴィナスの面をつけた日本的弁神論ないし、いわば弁皇論として、ある程度一貫して読めるのではないかと私は想像する。

私は現象学の専門家ではないので詳しい議論をする用意はないが、本論文を読む限りでは、著者の考え方は存在(イリヤであれエス・ギプトであれ)や外部性や無限性に関心を持たない点で、根本的に少なくともレヴィナスと異なっているように思える。むしろ、他者の主体性を否定し、神のいわば世界超越性を自然化し、言語の形式性と規則性を制約と見なし、以心伝心的な意志伝達を可能と信じる点で、日本思想の典型的な思考パターンを示しているのではないか。もちろん、著者はこのことを意図して本論文の諸議論を展開したのではないと思われる。が、そのことはむしろ日本的なものの比喩的に言えば強靭な自己再生能力とその日本的な特徴を示していると言えるだろう。これに対して、もし著者が意図的であったならば、かえってその企図を不自然なもの、わざとらしいものとして台無しにしていただろう。(なお、私は日本的イデオロギーについて中立である。念のため。)

以上の解釈がある程度正しいならば、実存の脱自性や存在の外部性を強調したハイデガーやレヴィナスに対して、著者はその二者の理論的枠組みを日本的全体性の再構築に転用したことになるが、しかしそのことは特に非難に値するとか詐術的であるとは言えないと私は考える。というのも、ハイデガーはドイツ(あるいはナチス)、レヴィナスはユダヤ教という、それぞれ一つの全体性の内部に属しており、彼らの哲学はそれぞれの全体性に奉仕する理論だったと見ることが可能だからである。この点は、私よりもハイデガーやレヴィナスの哲学の細部に詳しい人々の方がよくわかっているだろうと思う。(だから、著者とレヴィナスの間は、ユダヤ教の信者以外の人にとっては、レヴィナスの「外部性」や「無限性」のいわば額面が示唆するほど大きくはないと言える。)これらの諸全体性のどれがどれに超越するか、またはどれがどれの外部にあるかは、イデオロギー中立的に判断するのが難しい。国家主義者は国家が宗教に超越すると言うだろうし、宗教家は宗教が国家の外部にあると言うだろう。この点は、外部性や超越性、無限性を唱える思想を読むときに注意すべき事柄であろう。

では、究極の外部とは何か?という疑問を私にたずねたい人がもしかしているなら、私の見方は、それは真理だと考えるしかないというものである。国家や宗教、人種や血統や神や伝統ではなく、真理がわれわれの世界ないし社会の最も外部(または上、根底、彼岸など)にある。われわれの信念が真かどうかは、内部の取り決めではなく外部への参照によって決まるからである。ゆえに、真理の探求は究極の外部を目指すことである。この立場から見れば、宗教も国家も人間が作った約束事に過ぎず、それらの中にとどまることは信仰に依存して生きることに他ならない。なお、もちろんこれは私一人の意見であり、本論文の評価とは無関係である。)
posted by 三好 at 23:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
とてもおもしろく読ませていただきました
道具論と他者論について考えさせられる論点がたくさんありましたが、
特にまとめの部分には笑いが込み上げてきました

今から他の記事も読んでみようと思います
Posted by 向野 at 2011年08月11日 00:04
向野さん
夏休み中ネットから目を放していた時期だったので、うっかりしていました。掲示が遅くなってどうも失礼しました。
Posted by 三好 at 2011年10月17日 05:29
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