2011年06月24日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(16)

4-4
第四に、「神を意味する絶対的に他なるものという名が、むしろ具体的な他者について語られる。他者は、その他性と超越において、つねに絶対的に他なるものにほかならない」という主張にはまた別の問題がある。というのも、「神を意味する絶対的に他なるものという名が、むしろ具体的な他者について語られる」という表現は非常に曖昧だが、少なくとも素直に読む限り、神と具体的な他者を同一視しており、ゆえに創造者と被造物を混同しているからである。よって、ユダヤ‐キリスト‐イスラム教から見れば、明らかに受け入れられない主張だろう。一神教の文脈で「絶対的に他なる」という規定は創造者と被造物や無限者と有限者の違いを意味しているのだから、それを日常世界の具体的な他者に当てはめるのはかなり無理だと私には思われる。また、この考え方をそのまま当てはめると、他者の身体への配慮が偶像崇拝になり、他者の身体への暴力を正当化することになりそうである。一神教的な神観を離れても、具体的な他者を超越性に関して神と同視するというのは、非常に奇妙だと言わざるを得ない。<わたし>にとって具体的な他者は、コミュニケーションの相手であり、また互いに配慮や暴力などの倫理的な問題が生じるような関係にある存在者である。他者を著者の考え方に従って捉えるのは、<わたし>と他者の関わり合いを不可能にするだろう。

また、別の箇所では、著者は他者の超越性を自然の予測しがたさと同視している。このことにも注意が必要である。

世界はその始原的な相、地水火風においてもなじまれ、親しまれている。……。古来、四大と呼ばれてきたものたちは、けれども、世界の測りがたさ、慣れしたしまれた世界の裏面をも明らかにするのではないだろうか。水流は住みかを押しながし、火は家を焼きつくす。世界は親しまれ、なじまれたそのおもての背後に、馴致されない他性をやどしている。――世界がときにその始原の他性をあらわにするように、他者もまた飼い馴らされない計りがたさをあきらかにするときこそ、一箇の他者なのではないか。他者が<わたし>との関係を逃れ去り、あふれ出すときに、他者はまさに一箇の超越であり、他性そのものとなる。(p. 175)


この箇所は思想史的に非常に興味深く思われる。というのは、西洋哲学を専門的に研究している現代の日本人哲学者がいまだ日本の伝統的な神観を保持している、ということを示しているからである。著者の主張をそのままつなげれば、他者の超越性を媒介にして、自然と神とが等置されることになる。そして、神の超越性は、他人が思いがけない荒々しい行動を取る可能性や、自然が思いがけない災害を起こす危険性と類比的に理解される。明らかに、この人間的で自然的な神は西洋的な(ユダヤ‐キリスト教的な)ものではなく、日本的なものである。(スピノザ的な汎神論と違うことも明らかである。古いユダヤ教の神とも、契約と処罰との関係がない点で違っている。)なお、地水火風の四大は古代ギリシア起源だが、引用箇所ではそのアニミズム的な側面を強調しており、日本的な神観や自然観と衝突しないだろう。
posted by 三好 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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