2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(15)

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第三に、「祈りが超越的なものに向けられたことばであるかぎりでは、神を意味する絶対的に他なるものという名が、むしろ具体的な他者について語られる」というのも、かなり根拠が薄弱である。その理由は以下の通り。

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第一に、何に祈るかは祈る人の勝手だからである。誰かがそれに祈っていれば、それだけの理由からそれが超越的存在であると判断するのはおかしいだろう。

これに対して、超越的存在に対してでなければ祈っているとは言えないという反論も考えられる。だが、その意味で「祈り」を使用する場合は、議論のステップを前に戻って、他者への発話がその意味での祈りかどうかが問題とされることになるだろう。つまり、他者への発話は他者への祈りである、ゆえに他者は超越的存在であるという、著者の議論は論点先取になる。

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第二の理由は、他者への言葉が祈りだとしても、それは他者へ祈ることを含意するわけではないということである。相手に私の言葉が届きますように、と人は神に祈っているのかもしれない。神を信じる人には、目の前の相手よりも神に祈る方がまだしも目的を達成する可能性が高いだろう。また、他者に祈るとすると無限後退の問題があることは、上で述べた通りである。

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第三の理由は、他者が超越しているとするなら、何に(何を)超越しているのかがまったくわからないということである。神ならば被造物なり自然なりに超越しているだろうし、実在的対象ならば<わたし>の感覚や知覚に超越しているだろう。しかし、他者は何に超越しているのだろうか。

もしかしたら、他者は<わたし>に超越しているという趣旨かもしれない。しかし、そうすると著者が和辻哲郎を参照して指摘している「……、他者たちを「ちらっと見る」ことや「見ないふりをして見る」ことは、相手から見かえされることによってあらかじめ規定されている」(p. 179)ということと矛盾するだろう。というのも、一方が他方に超越しているなら、その双方が対等に見たり見返したりすることはないはずだからである。それに、他者から見れば<わたし>は他者にとっての他者なのだから、<わたし>にとって他者が<わたし>に超越しているように、他者にとって<わたし>は他者を超越していることになるだろう。二つの存在者が互いに超越し合っているということは、理解不可能かさもなければ結局どちらも相手に超越していないということになるのではないだろうか。

同様の問題は、複数の他者のついても生じる。例えば、<わたし>と二人の他者AとBが会話をしている状況で、他者同士のAとBはどういう関係なのだろうか。Aが<わたし>に超越し、Bも<わたし>に超越しているなら、AとBは超越者同士で特別なコミュニケーションを成り立たせているのだろうか。また、AとBは互いに超越し合っているのだろうか。しかし、<わたし>と他者の会話も他者同士の会話も根本的に異なるわけではないのだから(また、そもそも<わたし>は言葉を他者から学んだのであった。これは他者同士の会話から<わたし>が言葉を学んだことも含むだろう。参照、pp. 175-6)、これらの点も著者の主張にとって大きな困難となるだろう。
posted by 三好 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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