2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(14)

4
4-0
第四に、他者と超越について。著者はこれまでの議論から次のように他者像を描いている。

他者は<わたし>から隔てられている。他者とは<わたし>からの隔たりそのものであり、差異それ自体である。他者が隔たりそのものであるのは、その隔たりがどのようにしても超えがたく、ことばによっても越えがたいものであるからである。他者へ向けられたことばは、かくて祈りとなる。祈りが超越的なものに向けられたことばであるかぎりでは、神を意味する絶対的に他なるものという名が、むしろ具体的な他者について語られる。他者は、その他性と超越において、つねに絶対的に他なるものにほかならない。(p. 180)


本論文の末尾近くであるが、ここには新たに多くの問題点が出現している。

4-1
第一に、「他者とは<わたし>からの隔たりそのもの」というのは、おかしい。なぜなら、他者が他者たるゆえんは、それが<わたし>の感覚世界に現れた、<わたし>とは非同一の主体(実体、存在など)だからである。(私と同一でない主体が私の感覚世界に現れることの奇妙さは、私の夢の中に本物の他人が現れることの奇妙さを想像すればつかみやすいだろう。)それが主体でなければ、他者でなく物であるし、それが<わたし>と非同一でないなら、他者でなく<わたし>自身である。「その隔たりがどのようにしても超えがたく、ことばによっても越えがたいものであるから」ということはまったく理由になっていない。何かが越えがたい隔たりの向こうにあるからといって、その何かは隔たりそのものだと言うのは、論理の飛躍でありカテゴリーミステイクでもあるからである。さらに、他者論において他者から主体性を消去することは、論理的にも実践倫理的にも問題を生じるだろう。

そして、さらに他者が複数存在する場合にも、著者のこの主張は困難にぶつかる。他者が<わたし>からの隔たりそのものまたは差異そのものだとしたら、他者同士はどう異なるのか。複数の他者がいずれも<わたし>からの隔たりそのものだとしたら、それら他者同士は論理的に同一であるということになりそうである。しかし、この帰結は明らかに受け入れられない。

4-2
第二に、「他者へ向けられたことばは、かくて祈りとなる」という主張には飛躍がある。自己と他者の隔たりが言葉によって越えられないからといって、他者への言葉が祈りになるとは限らない。賭けかもしれないし、冒険かもしれない。だから、なぜ「祈り」に限定されるのか根拠が示される必要がある。それに、祈りはそれ自体言葉でなされるものであるから、無限後退の恐れがある。すなわち、祈ることは(少なくとも心の中で)言葉を用いて、多くの場合神やその他の神秘的存在に話しかけることであるから、著者の議論を当てはめれば、それ自体うまく行くかどうかが不確定なことであり(つまり、神その他の神秘的存在に聞き届けられなければその祈りは失敗ということになる)、よって実は祈りが届くことの祈りに他ならないことになる。この後退は同じようにいつまでも続きそうである。祈りに言葉は要らないとすれば、この無限後退を避けられるが、そのときは、祈ることはいったい何をどうすることか説明される必要があるだろう。

さらに、この前の箇所では他者へ言葉を発することは「ほとんどひとつの「祈り」に近いもの」とされていたのに、ここでは他者への言葉は「かくて祈りとなる」とされている。この点も厳密には飛躍だろう。
posted by 三好 at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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