2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(13)

3-4
3-4-0
引き続いて、結論的に著者は次のように主張する。


声は、しかし他者に届くとはかぎらない。声がことばとなることは保証されていない。ことばが<わたし>の言おうとし、意味しようとすることを伝えるのは、場合によれば一箇の僥倖である。ことばを発することは、そのとき、ほとんどひとつの「祈り」に近いものとなるのではないか。(p. 179)


ここは上で示したように著者自身の前の主張と矛盾していること以外には、はっきり誤りと言えるところはないだろう。しかし、いくつか気になる点がある。

3-4-1
第一の点は、ここで「祈り」という言葉を使うのはやや大げさではないかということである。というのも、単に声が聞き手に届くかどうか確実でないから、言葉を発することが「祈り」なのだとしたら、人間のやることはみな「祈り」だということになってしまうからである。なぜなら、人間にやることで確実に成功することは一つもないからである。例えば、カップでコーヒーを飲むという簡単な行為も、カップを落としたり飲みこもうとしてむせたり、いろいろなやり方で失敗する可能性がある。これに著者の考え方をそのまま当てはめれば、カップでコーヒーを飲むこともまた、「一箇の僥倖」であり、「ほとんどひとつの「祈り」に近いものとなる」だろう。

ここで著者が問題にしていることが、一つの出来事として声が届くことでなく、他者が<わたし>の声を聞き取ってくれることであり、よって「祈り」となるのは他者への発話に限られるという解釈も可能であろう。しかしその場合は、祈りの相手方が他者なのか、祈り自体が発話でありそれ自体の成功失敗が問題なるのではないかなどの問題点がある。これらについては後で(4-2から4-3-2で)詳しく論じる。

3-4-2
第二の点は、ここでも著者は、<わたし>と他者との相互性ないし立場や視点の入れ換え可能性をまったく考慮していないということである。<わたし>が他者に祈るなら、他者も<わたし>に祈るかもしれない。日常的には、<わたし>が他者に言いたいことがある場合、たいていは他者もまた<わたし>に言いたい(または言い返したい)ことがあるはずである。著者がロマンティックに描いている「二度と会うこともないだれかに訣れを告げる」場面でも、別れる相手にも<わたし>に伝えたいことがあるだろう。そこで<わたし>が一方的に「息切れ」するまでしゃべり続けては、相手は口を開く機会がないままお別れしてしまうだろう。他者の言葉に耳を傾けようとする姿勢や、他者の言葉を正確に理解するにはどうしたらよいかという問題意識が、本論文を読む限り、著者には全然ないようである。この点は理論的にも実践的にも他者論として不十分なところだろう。
posted by 三好 at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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