2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(12)

3-3
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さて、著者は上で引用した主張を当てはめて、<わたし>と他者とのコミュニケーションの成立について次のように述べる。


現にいくどとなく使用されてきた記号は、ここでいま<わたし>が意味しようとし、言おうとすることを保証しない。愛を語ることばが憎悪をあらわし、畏敬を口にすることで深い軽蔑が語られる。「語られたこと」に裏打ちされたことばは、いまここで<わたし>が語ること、言おうとすることを表現するとはかぎらない。――記号が意味するかぎりでは、そのとおりである。だから、記号ではなく<わたし>が意味しなければならない。ことばにことばを重ね、ことばが尽きるその果て、声がただの息となるそのさかいまで、<わたし>は語りつづける。他者には届くことがないものであれ、「全身を記号となして」息切れるまで、息切れそのものとして語りつづける。そのとき、いっさいは、いまだかつて語られたことがないものとなるのではないか。(p. 179)


この箇所まで進むと誤りがいっそう大きくなっていると思われる。その理由は以下の通りである。

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第一に、「愛を語ることばが憎悪をあらわし、畏敬を口にすることで深い軽蔑が語られる」ことは、「現にいくどとなく使用されてきた記号は、ここでいま<わたし>が意味しようとし、言おうとすることを保証しない」のではなく、むしろ逆に保証する。なぜなら、愛を表す言葉で憎悪を意味することや、畏敬を表す言葉で軽蔑を意味することが、<わたし>の発話によってできるということは、<わたし>は自分の意味したいことを言語によって自由に表現できるということを示しているからである。換言すれば、言語的意味は規則に従うことによってだけでなく、それに違反することによっても生じることができるということである。(これは先に触れた、同一タイプの言語表現でも使用のされ方によって異なる意味を表現できることの根拠の一つである。)

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第二に、今の箇所は同時に、著者の以前の主張「ことばとはたんなる記号、反復可能性によって意味を持つ記号にすぎない。いっさいはもはや表現され、言いつくされている」と矛盾している。愛や畏敬を語る言葉が憎悪や軽蔑を表すのなら、一般的にそれぞれの発話時点において、過去の言語使用に左右されない創造的な言語使用が可能だと考えられるからである。

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第三に、「語られたこと」に裏打ちされたことばは、いまここで<わたし>が語ること、言おうとすることを表現するとはかぎらない。……だから、記号ではなく<わたし>が意味しなければならない」というのは、明らかにおかしい。言語やその他の記号によらないで<わたし>が直接何ごとかを他者に伝達するということは、字義通りに解すれば超能力の一種だろう。これまでの議論を踏まえれば、ここで著者は言語哲学的に文意味より話し手意味が基礎的だと論じているのではないと考えてよいだろう。なぜなら、話し手意味もまた記号なしには伝達されないし、話し手意味の理論において記号が反復可能だから話し手の意図する意味を持たないということもないからである。とすれば、「<わたし>が意味しなければならない」という著者の主張は少なくとも理解困難だと言わざるを得ない。

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第四に、「ことばにことばを重ね、ことばが尽きるその果て、声がただの息となるそのさかいまで、<わたし>は語りつづける。他者には届くことがないものであれ、「全身を記号となして」息切れるまで、息切れそのものとして語りつづける。そのとき、いっさいは、いまだかつて語られたことがないものとなる……」という最後の部分は、そうとうに納得し難い。

第一の疑問点は、「いっさいは、いまだかつて語られたことがないものとなる」とはどういう意味なのかである。<わたし>の意味したいことが、聞き手である他者に伝わるということであろうか。もし伝わらないのなら、息切れしようとどうしようと結果は同じことになるだろう。もし伝わるのならばなぜだろう。(この問いについては次に触れる。)また、「いまだかつて語られたことがないもの」とは何だろう。言語で表現されるべき<わたし>の心情が「語られたことのない」独自のものであることは、議論の暗黙の前提だったはずである。一方、言語または記号がすべて「語られたもの」であることは著者が明言していたことである。とすれば、この場で一体何が「いまだかつて語られたことがないものとなる」のだろうか。

第二の疑問点は、どうして「息切れ」によって「いっさいは、いまだかつて語られたことがないものとなる」かである。しゃべっているうちに息切れすることはありふれたことであるし、それによって話し手の心情がよく伝わるとしても、それは表情や身振りが一種の記号として聞き手によって解釈されたからである。(さもなければ、超能力であろう。)しかし、著者のこれまでの記号についての議論からすれば、息切れも記号であるなら、反復可能なものに過ぎず、新しい意味を生み出せないことになるはずである。「全身を記号となして」も事情はまったく変わらない。表情や身振りがいわば真正で純粋なものであっても同じである。その場合は、シンボリックな記号と意味の関係ではなく、心身の因果関係が解釈の基礎として働くという違いがあるに過ぎない。むしろ後者に基づく表現には、複雑な内容を伝達できないことと、自他の自然的なまたは文化的な違いが大きくなると解釈の正確性が著しく下がることという欠点がある。また、もちろん、相手の表情や身振りが演技でない真正で純粋なものかどうかは、聞き手は確実には判断できない。それができると考えるのは、他者の心を知り得るという結論を先取した場合だけだろう。

第三の疑問点は、当然ながら、書き言葉の場合はどうするのかということである。著者のこれまでの言語批判は話し言葉だけに限定されない。とすれば、例えば、本論文の中にも「息切れ」的なものがなければ、内容の独自性は読者に伝わらないことになりそうである。しかし、もし文字上の「息切れ」があったとしたら、かえって多くの読者にとって内容が読み取りにくくなるだろう。

第四の疑問点は、著者が上記引用箇所の直後に次のように書いていることである。

そればかりでない。ことばによって他者に語りかける場合、<わたし>が発する声は、なによりもまず他者によって聞きとどけられねばならない。(p. 179)


しかし、これは「息切れ」によって他者に意味が伝わるという主張と矛盾している。なぜなら、息切れしている間は声が出ないからである。声を相手に届かせるためには、息切れしたりかすれたりしないよう、大きな声ではっきりと話さなければならない。
posted by 三好 at 00:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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