2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(11)

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第四に、「ことばはたんなる記号、反復可能性によって意味を持つ記号にすぎない」から「いっさいはもはや表現され、言いつくされている」というのは誤っている。この点は比較的深い問題であり、慎重な取り扱いを要する。著者の主張は厳密には二つの解釈が可能である。一つは、文の意味は一定の意味論的な規則によって有限個の語の意味から合成されるから、文は新しい意味を持たない(ゆえに<わたし>の意図する意味を表せない)という、言語に限定された主張としての解釈である。もう一つは、言語に限らずあらゆる記号の体系について、表現の構成要素となる記号が有限で確定しているから、それから規則によって構成された表現は新しさを持たない(ゆえに<わたし>の意図する意味を表せない)という、言語に限定されない解釈である。第二の解釈を言語に当てはめると、それは一定数の(語ではなく)文字ないし音素しか持たないから、それらを組み合わせても新しい表現を生み出せないということを帰結するだろう。

第一の解釈による著者の主張の問題点は、一つには、人間にとっての自然言語の複雑さを無視しているということである。自然言語は非常に複雑なので、人間にはその表現可能性の全体を見通すことができない。だから、人間の知的能力にとっての相対的な豊かさが十分であれば、言語は新しい意味を生み出し得ると言ってよい。実際、五・七・五の俳句ですら日々新しいものが詠まれており、その中の優れたものは言葉の意外な効果を感じさせるものである。

数理的な複雑性だけでなく、芸術的な創造性の観点からも同じことが言える。芸術的な創造性は、そのジャンルやメディアの制約があってこそ発揮されるものである。例えば、古典音楽は理論的に音階や調性の制約があり、さらに楽器の音色や音量の制約があった。しかし、だからといって古典音楽に創造性が欠けていたと言えるだろうか。その一方、今日では無調音楽が一般化し、電子楽器に音色や音量の制約はほぼない。しかし、それによって芸術的な創造性が昔よりも高まったと言えるだろうか。あるいは、過去の美術では限られた色数の絵の具と手作業での描画から、創造的な絵画を描くことができた。今日ではコンピュータを使えばそれらの制約をまったく受けずにすむ。が、それは現代の美術がより創造的になったことを意味するだろうか。これらの例は、表現の手段や様式にある程度の制約があることは創造的な作品を生み出す可能性を阻害しないこと、あるいはむしろ制約があってこそそれを克服するために創造性が発揮されることを示唆している。このことは文学的な言語表現についても当てはまる。詩や散文や演劇の歴史がそれを示しているだろう。

もう一つには、任意の言語表現が既知の語彙から文法規則に従って組み立てられたものであり、その意味で論理的に決定されていたものであるからといって、<わたし>の意味しようとするものを表現できないとは言えないということである。なぜなら、第一に、使用される言語の豊かさと<わたし>の言語使用の適切さに応じて、いわば無限に複雑な表現対象への十分よい近似が得られるし、第二に、いかなる言語も使用しないうちに、自分の意味したいと思うことを正確に確定し、それと言語表現との違いを比較することはできないと考えられるからである。この反論から見れば、著者の主張は素朴な道具的言語観の一種と見ることができるだろう。

第二の解釈による著者の主張の問題点は、それが言語を越えてあらゆる事柄に適用可能だということである。例えば、あらゆるデジタル情報は0と1の有限列で構成されるのだから、著者の見方からすれば「いっさいはもはや表現され、言いつくされている」ということになる。とすれば、デジタル情報で表される事柄に新しいものはないということが導かれる。さらに、これを無限列に拡張してよいならば、アナログ情報にも当てはまる。というのも、デジタルとアナログの違いは離散的な量か連続的な量かの違いだからである。(どちらにしても有限な種類の記号を用いて表現できる。)そうだとすれば、森羅万象あらゆる出来事についてやはり「いっさいはもはや表現され、言いつくされている」と言わなければならないだろう。そもそも、どのような哲学的世界観にとっても、つまり、世界の構成要素を実体と属性・偶有性、単純観念、原子命題、あるいは数的秩序等のいずれと見なしても、世界は一定のパターンの論理的に可能な順列組み合わせの一部が実現したものである。(さもなければ、世界はまったく記述も説明も不可能な無秩序であることになるだろうし、可能世界も考えられないだろう。)したがって、著者の見方からすれば、記号(または記号同様に秩序的に構成可能な事物)の体系として見られた世界や宇宙の全体ですら、唯一性や創発性を持たないことになるはずである。とすれば、「言いつくされてい」ないことは存在せず、<わたし>が言いたいこともまた唯一的でも創発的でもあり得ないという結果になるだろう。

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第五に、これらの他にも雑多な問題点がある。例えば、<わたし>は言語で表現不可能なほど独自の感情や思考を持っているのか、それらを<わたし>が持っていたとしてもそれらを表現するのにそれらの独自性も表現媒体に反映させなければならないのか、さらに独自性ともども表現されたとしてもそれを他者が理解できるのか、そもそも他者はそれを理解したいと思っているのか等々である。特に、その当人はきわめて独自の思考を論じているつもりでも、他人の目から見ればごく平凡な考えに過ぎないということは、哲学の論文を読んでいればよくあることである。これらの諸論点に照らして見ても、著者の主張は十分に説得力あるものとは言えない。
posted by 三好 at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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