2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(9)

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第二に(前節の第三の点でもある)、他者の身体と痕跡について。メルロ=ポンティに反論する形で、道具は<わたし>の身体の延長になるが、他者はそのような関係を逃れていくと著者は主張している。

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メルロ=ポンティの「もし<わたし>が他者の手を握りながら、他者がそこに存在することについて明証を有するとすれば、それは、他者の手が<わたし>の左手と入れかわるからであり……」という主張に対して、著者は次のように反論する。

どれほど強く握りしめても<わたし>はむしろ、じぶんのもとめるものを手に入れることがなく、触れようとするものに触れることもないように思われる。友人の手を握りしめるとき、<わたし>がもとめているものは触れることによっては到達されることのないものではないだろうか。だからこそ<わたし>は、到達不可能なものにそれでも到達しようとし、あるいは触れえないものになお触れようとして、いよいよ強く友の手を握りしめようとすることだろう。けれども、どれほどに力をこめても、つねにそれではない、あるいはそれだけではない。他者そのものはいつでも<わたし>の手をすり抜けて、無限に後退し、過ぎ去ってしまう。他者のたしかな現前であるかと思われ、それに触れ、それを手にしようとしたものはかえって、いわばあらかじめ他者の痕跡であったのである。(p. 173)

しかし、この議論は以下の理由からきわめて脆弱だと言わざるを得ない。

2-1-1
第一に、根拠が示されていない。ここで描写されているのは、最も好意的に解釈しても著者の個人的な経験にすぎず(非好意的に解釈すれば恣意的な空想や根拠のない思い込みということになろう)、どの程度信頼してよいものか不明である。そもそも、「<わたし>がもとめているもの」「他者そのもの」(これらはおそらく同じものだろう)が何かも説明されていない。そして、もしそれが著者の言う通り認識不可能なものだとすれば、「他者そのものはいつでも<わたし>の手をすり抜けて、無限に後退し、過ぎ去ってしまう」と著者が言うとき、著者はどうやってそれを知り得たのだろうか。

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第二に、他者が「いつでも<わたし>の手をすり抜けて、無限に後退し、過ぎ去ってしまう」というのは明らかに誤りだと私は考える。このことは、他者から<わたし>を見ればわかる。他者から見れば、<わたし>は他者にとっての他者である。(このような視点の入れ替え可能性を認められないものは、他者とは言えないだろう。盲目の他者であっても同じである。)しかし、<わたし>は他者の手から「すり抜けて、無限に後退し、過ぎ去ってしま」わない。<わたし>は握手をしている限り他者の目の前にい続ける。<わたし>は他者の手をすり抜けられないし、無限に後退することもできない。とすれば、他者の方でも同じであるはずである。ここで<わたし>にできなくても他者にはできると考えることは、他者に奇妙な特殊能力を認めることであって、根拠がない。

これに対して、<わたし>は過ぎ去らなくても<わたし>そのものは常にあるいは予め過ぎ去ってしまっている、という反論も考えられなくもないが、しかし、これにはまず<わたし>でない<わたし>そのものとは何かという疑問に答えてもらわなければならない。

また、著者の次の記述は他者が<わたし>の手を逃れていくことの例として考えてよいという反論もあるかもしれない。

……、じぶんがいま握っているのが死にゆく他者の手であるとすれば、<わたし>が手でとどめようとするものは、やがて過ぎ去ってゆくことで、避けがたくその無限な他性をあかすことだろう。(p. 173)


しかし、死者を他者の例としてあげることは、これまでの議論をひっくり返すことになり、よって著者自身にとって困ったことになるだろう。例えば、道具からそれを使用する死者の存在を認識できるかとか死者と握手できるかとかのおかしな問題が生じる。

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第三に、この著者の見方は素直に受け取れば実践倫理を不可能にする。なぜなら、実践倫理は、他者の身体への配慮が他者への配慮であり、他者の身体への暴力が他者への暴力であることを基礎にしているからである。他者の身体が他者そのものでなく他者の痕跡に過ぎないなら、その身体への配慮や暴力は、せいぜい他人のものを大切にすることや壊すこと程度の倫理的な意味しか持たないだろう。もちろん、この点はただの理論的な杞憂に過ぎないと思われるかもしれない。だが、上の引用文中にやや心配させる箇所があった。それは「……<わたし>は、到達不可能なものにそれでも到達しようとし、あるいは触れえないものになお触れようとして、いよいよ強く友の手を握りしめようとすることだろう」というところである。そんなに強く手を握り締めたら相手が痛がるだろうと私は思うのだがどうだろう。多少意地悪な言い方をすれば、その他者論のために著者が相手に暴力を振るい苦痛を与えていることに気づいていない状態を示しているような印象を受ける。
posted by 三好 at 00:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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