2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(8)

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さらに、<わたし>とひとは相互に関わりあうことができるから、他者だけが<わたし>にとって特別だと言えるだろうか。<わたし>と他者の相互的な関わり合いについて、著者はかなり強い主張をしている。

関係がつねになんらかのかたちでなりたってしまうことが、他者という、<わたし>からの差異でもある者の特異さを、日常的な次元でも指ししめしている。日常的な生の水準で、すでに、<わたし>は他者たちに対して不断に無関心でいることができない。/たとえば疎遠な他者たちと乗りあわせている電車内で、<わたし>はなるべく無関心を気どり、とくべつなかかわりを避けようとすることだろう。装われた無関心が、とはいえ、他者たちに<わたし>が無関心ではありえないことのあかしにほかならない。(p. 170)

しかし、この主張も容易に論駁可能である。第一に、事実問題としてみれば、一般的に<わたし>は他者に関心を持つわけでない。人が関心を持つのは、関心を持つべき理由があるからであって、そのような理由がないときには関心を持たない。他者に対する関心だけは何の理由もないのに常に持つ、というのは奇妙である。また、そもそも引用箇所の「無関心を気どり」「装われた無関心」という表現は論点先取的である。多くの場合、電車内で<わたし>は他の乗客の多くに対して端的に無関心だからである。電車内で居眠りしていたり、携帯ゲームをしていたり、メールを打っていたりする場合などを考えれば明白だろう。これに対して、人はみな他者に関心を持つべきであり、他者に関心を持たない人は正常な社会性を欠いている例外だと、もしも著者が考えているなら、それは特定の道徳観に基づく意見であり、客観的なまたは普遍的な事実ではないと私には思われる。

第二に、他者に関心を持つ場合でも、その関心は自分への関心に由来することがある。例えば、電車内で大声で携帯電話でしゃべっている人に対する<わたし>の関心は、その騒音で<わたし>が迷惑をこうむったことに基づく関心であり、自分への関心に由来していると言える。その人が電話を切って静かになれば、<わたし>はその人への関心をすぐに失うだろう。だから、このような他者への関心は、<わたし>が他者に無関心でいられないことを示しているわけではない。

第三に、それほど多くの他者へ<わたし>は関心を持つことができない。例えば、偶然乗り合わせた電車の車両内にいる他の乗客全員に<わたし>が関心を持っていると言えるなら、<わたし>はささいなことで誰にでも際限なく関心を持つことになってしまうだろう。隣の車両や降りた駅のプラットホームやエスカレーターや改札口やさらに駅前の道路にいる人々(渋谷駅や新宿駅などを想像されたい)すべてに関心を持つことになるはずである。しかし、それは<わたし>の知的能力をはるかに超えたことであり、不可能だろう。

第四に、他者すべてに<わたし>が関心を持つとすると、「関心を持つ」や「関心がある」の意味があまりに薄くなってしまう。ある程度限られた他者に対してのみ<わたし>は関心を持つから、「関心を持つ」ことに意味がある。すべての人または深いかかわりのない多数の人に<わたし>が関心を持っていると言えるなら、<わたし>にとって本当に重要なごく少数の人々に対しては何と言えばよいのだろうか。これに対しては、「深い関心を持つ」など程度の大きさを表す修飾語と合わせて言えばよい、という反論があるかもしれない。しかし、それは日常的な日本語表現に反している。「私は誰々に深い関心を持っている」と言えるのは、よほど特別な事情があるときだけだからである。

第五に、ものともの、ひとともの、ひととひと、それぞれの関係の特徴に基づく全体の議論の立て方が無理であろう。著者の議論の概要は、ものとものは関係しあわない、ひととものは一方的な関係に過ぎない、ひととひとはつねにすでに互いに関係しあっている、ゆえにこの点で他者は特異である、というものである。したがって、この議論はすべてのひとがそしてひとだけが認知能力を持っていること、かつ、その認知能力を用いた関係しか「関係」でないということを前提にしている。しかし、これらの前提を正当化せずに立てることは乱暴だろう。上の議論でも触れたが認知能力を持つ生物や機械は存在するし、また、認知能力を喪失した人も存在する。認知能力を用いた関係のみ「関係」と認めるのは、露骨な論点先取と言ってもよいだろう。これらの点から、著者の議論はものとひとの違いを初めから前提してしまっていると私には思われる。認知能力や「関心を持つ」ことは前提ではなくむしろ分析すべきことがらであり、<わたし>と他者の関係の特異性はその分析の結果得られるものではないだろうか。

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第三の点は、他者の身体と痕跡にかかわる部分なので2節に移って論じる。
posted by 三好 at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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