2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(7)

1-2
1-2-0
第二に、もの同士は自ら関係せず、<わたし>とものは一方的な関係に過ぎないが、<わたし>とひとは相互に関わりあうことができると言えるだろうか。これらも順番に吟味していこう。

1-2-1
著者がもの同士は関係できないとするのは、次のような議論によってである。

カギとカギ穴は相互に関係している。……。にもかかわらず、カギはカギ穴に対してみずからは関係せず、カギ穴もカギに対して自身では関係しないのではないだろうか。カギとカギ穴が関係しているかにみえるのは、ただ、ひとがカギ穴にカギをさし込んで、たとえば部屋に施錠し、また解錠するからにすぎない。両者の見かけ上の関係は、ひとが両者を関係させ、ひとがその双方に関係することに由来している。(p. 168)


しかし、この引用箇所には十分な説得力がない。なぜなら、第一に「関係する」とはどういうことかが不明確だからである。通常の意味で「関係する」を解するなら、ものとものとが互いに関係し合えることは明らかである。例えば、因果関係や時空的関係、類似性(または非類似性)や同一性(または非同一性)など。上で触れたように電力や情報のネットワークを構成する場合もある。著者の「関係する」は、相手と関わる必然性があることや、互いを指示すること、互いに適合していることなどと言い換えられているが(参照p. 168)、その中心的な意味ははっきり読み取れない。

第二に、「みずから関係する」「自身で関係する」がどういう意味なのかがまた不明確だからである。仮にもの同士が「関係する」ことは可能でも「みずから関係する」ことは不可能だとしたら、「みずから」は論点先取的な意味を持つと言う他ない。

第三に、どうして自ら関係し合えないもの同士を「ひとが……関係させ」ることが可能なのかが明らかでないからである。著者はこの後、レーヴィットを引用して、ひととものとの関わりを分析しているが(pp. 168-9)、しかしそれは、ひとがものと別のものを関係させられるのはどうしてかというここでの疑問からずれている。というのも、ものとものとの関係は、それらのものが別個にひとと関係しても成立するわけではないからである。例えば、絵と額縁やカギとカギ穴のようにはハンガーと洋服ブラシは関係しない。以上の点は、著者が論点先取ないし論理の循環に陥っていることを推察させる。

なお、本論文におけるものとものとの「関係」についての議論はレーヴィットの『共同存在の現象学 (岩波文庫)』に由来するものである。しかし、レーヴィットは「関係」を「連関」「相関」「関連」などと区別した上で、その正確な意味を、絵と額縁やカギとカギ穴の例の分析から明らかにしようとする(参照、同書、第12-3節)。この点で著者と異なっている。

1-2-2
次に、<わたし>とものは一方的な関係に過ぎないと言えるだろうか。著者は次のように論じている。

<わたし>はじぶんのカギを喪失するけれども、カギはじぶんを喪うわけではない。<わたし>をカギが見失うわけでもないだろう。ひとが他の者に関係するのではなく、或るものに関係する場合、関係はつねに一方的である。(p. 169)


しかし、これに対する反例を見つけるのは容易である。例えば、盲導犬が主人を見失うことはあり得るだろう。犬はものでなく他者であるとするなら、犬型ロボット(AIBOなど)を考えればよい。あるいはカーナビが自車の位置を見失った場合や、指紋や静脈の認証システムが誤った場合はどうか。著者の枠組みでは、少なくとも動物が(そしてその他の生物やその器官や細胞なども)どう分類されるかが難しい問題となる。その上、今日ではセンサやGPSなどの機能によって、使用者なり客なり侵入者なりを認識する道具がたくさんある。対人認知機能を持つ道具が相手ならば、ここでの議論からひとはものに対して一方的な関係に立つとは言えないだろう。
posted by 三好 at 00:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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