2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(6)

(1-1の続き)

そして、人間が道具を使用するということを正確に理解するためには、道具の使用の多様性にも目を向ける必要がある。著者は、一人の人が所有物である机やボートや食器セットを日々使用することをもっぱら例にあげて議論しているが、それは少なくとも今日では典型的なものでない。大学生が大学で備え付けのコンピュータを使用する場合を考えてみよう。そのコンピュータは法人としての大学の所有財産であり、その学生以外の多くの学生や教職員が使用するものである。また、その端末とネットワークは大学の担当者によって管理されている。さらに、学生がその端末からインターネットに接続するとき、その経路上にあるサーバやルータや回線をすべて使用していることになるが、それらの側から単純なやり方で使用者の学生を特定することはできない。したがって、このような場合、道具とその使用者との関係は一対一のものではない。コンピュータを使用しているのは、多数の学生であり、管理者であり、大学であり、また遠くの端末からアクセスしてくる(チャットやメールを含む)見ず知らずの人である。使用している個々の学生から見れば、目の前の端末の他に回線、サーバ、ルータ、それに接続している電子機器、さらにもちろん電源などが同時に使用または共用している道具である。このような、社会制度を基盤とする、それぞれ複数または不特定多数の道具と使用者の多様な使用関係は本論文の分析の外にある。これと同じようなことは、例えば、大規模な商業設備(スプーンも大型レストランの備品として考えればこれに入る。多数の客、ウェイター、配膳係、食器洗い係、法人としてのレストランなどがそれを使用すると言えるだろう)や公共機関の機材など、非常に多くのものに当てはまる。これらの場合、道具の使用には一時的な使用、偶然的な使用(必ずしもその道具でなくてもよい)、共有的な使用、所有に基づかない使用、組織としての使用、管理的な使用などが含まれる。そして、もちろん、電子工学や情報技術による道具のネットワークは、レーヴィット流の道具連関(スプーン、カップ、ソーサー、食卓、椅子、ダイニングなどの連関)とまったく別種のものである。

このように考えてくるならば、著者による、道具とその特定の使用者の安定的でルーチン的な使用関係に基づく議論は、単純化された特殊例に依存するものであり、一般的な見地からの厳密な検討に耐えられないと判断してよいだろう。道具の存在から特定の使用者としての他者の存在を導くことは、使用者のない道具が多数存在すること、使用よりも基本的な人と道具の関わり方があること、そして使用の仕方が多様であることから、道具と他者への正しいアプローチではないと言えよう。
posted by 三好 at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/211698471
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。