2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(5)

(1-1の続き)

さらに、多くの道具については、さらにそれを運搬した人や販売した人などもほとんど必ず存在しているということも付け加えなければならない。このことは近代以前からそうであった。例えば、古代にはすでに多くの種類の石器や土器や金属器に関して、原産地、工房、流通地域が分化して相互に結びついていたことが考古学的調査から知られている。近代的な道具になると、いっそうその特徴がはっきりする。著者が道具の例としてあげているスプーン(p. 167)について見れば、それがステンレス製だとすると、作るには鉄、クロム、ニッケルなどの原材料と加工用の燃料が必要であり、これらはすべて海外から輸入しなければならない。(もちろんスプーンの製品を輸入してもよい。この点は以下の議論に影響しない。)そうすると、スプーンの存在は、国際的な貿易体制がすでに成立していることを前提にしている。ということは、少なくとも日本とその相手国とに通貨制度や経済制度があり、その間に国際商取引制度が機能しており、船舶・航空・鉄道などの物流網が張り巡らされていなければならない。もちろん、工業技術的な標準や品質基準も規定されている必要がある。そしてこれらの背後には、広範囲な領域を統治する政治権力と行政機構が確立していなければならない。すなわち、一つのスプーンがあるところには、多くの人々が織り成す複雑な社会的ネットワークが、言い換えれば政治と経済と科学技術があるのである。このことは、著者があげている他のすべての道具の例、ソーサー、カップ、机等々についても完全に当てはまる。

この観点から見るとき、著者が道具からその使用者の存在を導こうとするのは、むしろ道具と人の比較的浅いつながりに着目していると言ってよいだろう。というのも、上の考察によれば、道具は使用者に渡った後よりも、使用者に渡る前に多くの人々とより基本的な関わりを持つからである。ここで「より基本的な関わり」というのは、道具の製造・運搬・販売がなければその使用もないということ、および道具をそのような道具たらしめたのは使用ではなく製作だということによる。したがって、著者は道具から他者の存在を導くのであれば、まず道具の作り手の存在に言及すべきであったと思われる。

これに対して、よく使い込まれた道具の場合は、使用が道具と人のより基本的な関係だという反論があるかもしれない。しかし、道具を使い込むことは単なる使用ではなく、再製作や再加工を含んでいると考えられる。なぜなら、道具を使い込むためには、その道具の手入れ、保守、点検、修理、部品交換、カスタマイズ、更新等が不可欠だからである。例えば、刃物を長期間使用するためには、使用後洗ったり研いだり柄を付け替えたりしなければならない。ノートパソコンを継続的に使用するためには、バッテリーに充電したりソフトウェアをインストールしたりアップデートしたり周辺機器を増設したり交換したりしなければならない。これらは道具にその状態変化を目的として直接働きかける点で、使用でなく製作である。というのも、道具の使用はその道具それ自体ではなくそれを用いる対象の状態変化を目的とするからである。したがって、道具をよく使い込んでいる使用者は、その道具に対して製作者としても関係している。ゆえに、よく使い込まれた道具が、道具の使用が製作よりも基本的であるということを示す例になるとは言えない。
posted by 三好 at 00:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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