2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(4)


無数の他者たちがこの<わたし>よりもさきに存在し、<わたし>が他者たちのあいだで<わたし>になったのとおなじように、たとえば語彙と文法の体系といったかたちで思いえがかれるような言語体系は<わたし>に先だってすでに存在し、<わたし>はまず他者たちから言葉を習得することで、じぶんのことばを獲得する。ことばを獲得するとは同時に、ことばが名ざし、ことばが切りわける世界そのものを手にすることである。そうであるとすれば、ことばによって所有される世界は、他者たちによってあらかじめ所有されている世界である。そればかりでなく、言語を使用すること、他者に対してことばを語りだすこと自体が、<わたし>が手とことばによって所有する世界を他者に対して呈示しなおし、たんなる<わたし>の所有をくつがえす。レヴィナスは「指示するという行為によって、さまざまなものを<わたし>が享受し所有する関係が変容し、ものたちは他者のパースペクティヴのもとに置かれることになる。……。記号を使用することで、ものたちは提供可能となり、さまざまなものが<わたし>の使用から引き剥がされて、譲渡し外的なものとすることが可能となる……」と書いていた。

[しかし]他者へと向けられたことばは、宛て先である他者に確かに到達するものなのだろうか。他者に向けて「語ること」は、それ自身としては一回的な、ときとして切迫したできごとである。[しかし]ことばによって語るとは、すでに「語られたこと」を繰り返すことである。置き換えを拒む、どのような「語ること」それ自身も、無限に反復可能な語彙を使用し、繰り返し使用可能な文を形成することによってのみ語りだされるからである。すべてが語られたことであり、すでに言いつくされているとは、いまここで<わたし>が語ることばは、じぶんが意味し、言おうとすることを、それ自体としては断じて意味しない。たとえば、二度と会うこともない誰かに[「さようなら」と]訣れを告げるとしよう。この場面では、「語ること」と「語られたこと」とのあいだには越えがたい隔たりがある。現にいくどとなく使用されてきた記号は、ここでいま<わたし>が意味しようとし、言おうとすることを保証しない。だから、記号ではなく<わたし>が意味しなければならない。そればかりでなく、声は他者に届くとはかぎらない。ことばが<わたし>の言おうとし、意味しようとすることを伝えるのは、場合によれば一箇の僥倖である。ことばを発することは、そのとき、ほとんどひとつの「祈り」に近いものとなる。

他者とは<わたし>からの隔たりそのものであり、差異それ自体である。他者が隔たりそのものであるのは、その隔たりがどのようにしても超えがたく、ことばによっても越えがたいものであるからである。他者へ向けられたことばは、かくて祈りとなる。祈りが超越的なものに向けられたことばであるかぎりでは、神を意味する絶対的に他なるものという名が、むしろ具体的な他者について語られる。[?不詳]他者は、その他性と超越において、つねに絶対的に他なるものにほかならない。
posted by 三好 at 01:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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