2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(3)


なじまれ、慣れしたしまれた世界のなかで、他者もまた熟知された相のもとで現前する。他者はその不在にあってすら一箇の現前であり、遠くはなれた他者もまた、<わたし>にとって近い存在でありうるだろう。和辻哲郎が説いていたように、ひとの身体の間には「引力」がはたらいている。一般に、身体的な近接と、触れることの次元が、他者と<わたし>とのあいだの直接的な関係の成立を告げる。メルロ=ポンティは「もし<わたし>が他者の手を握りながら、他者がそこに存在することについて明証を有するとすれば、それは、他者の手が<わたし>の左手と入れかわるからであ」ると書いている。<わたし>の触れる手と、触れられた他者の手も反転しうる。この可逆性が、身体的‐間身体的次元における、他者の直接的な現前なのだ。

しかし、友人と握手するとき、友人の右手は<わたし>の左手と入れかわらない。友人の手を握りしめるとき、<わたし>がもとめているのは触れることによっては到達されることのないものである。他者そのもの[?「<わたし>がもとめている」ものか]はいつでも<わたし>の手をすり抜けて、無限に後退し、過ぎ去ってしまう。他者の確かな現前と思われたものはあらかじめ他者の痕跡であったのである。皮膚は触れられるものと触れらないものとの「隔たり」である。メルロ=ポンティによる他者に触れる手というメタファーは、触覚が提示する見せかけの直接性によって、触れることの不可能な他性の次元を覆い隠してしまう。他者の身体に触れる経験をその[「自己への現前」をかたどる]原型へと回収することは、他者が他者であること、その超越を、<わたし>の現在、<わたし>に対する現在へと「併合」してしまうことである。

道具は、たとえばハンマーは、手に取られ、手の替わりとなって、<わたし>の身体のはたらきへと繰りこまれ、むしろ<わたし>の身体の延長となる。ハンマーが手ごろな道具であることをやめるとき、それはもはや釘を打ちつける道具ではない。しかし、他者は、関係から逃れてゆくことですぐれて<わたし>にとって他者である。

世界は手に対して与えられ、手になじまれている。それは、<わたし>にとってその他性があらかじめ乗りこえられたものである。[しかし]世界は親しまれ、なじまれたそのおもての背後に、馴致されない他性をやどしている。世界がときにその始原の他性をあらわにするように、他者もまた飼い馴らされない測りがたさをあきらかにするときにこそ、一箇の他者なのである。他者が<わたし>との関係を逃れ去り、あふれ出すときに、他者はまさに一箇の超越であり、他性そのものとなる。
posted by 三好 at 01:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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