2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(2)


ひとつの道具といったものは厳密にいえば存在しない。道具としての食卓は、一個の道具連関を開示し、また道具連関のうちにある。道具は、道具連関の全体がその者「のために」ある他者をも指示している。道具連関は本当に関係の成り立ちを告げているのだろうか。紐を木の枝に結びつけるとき、必然性は存在しない。絵と額縁の場合、絵は額縁を必要としない。カギとカギ穴の場合は、相互に関係しているが、ひとが両者を関係させ、その双方に関係することに由来している。[ゆえに]ものとものとは、たがいに関係しない。ひとが複数の存在者を相互に関係させるだけである。

ひとはそもそもものにかかわり、物的な存在者と関係することができるのだろうか。[レーヴィットを踏まえれば]ひとが或るものに関係する場合、関係はつねに一方的である。厳密にいえば、関係は一方的ですらありえない。関係が一方的なものとなるのは、それが相互的なものでもありうる可能性とうらはらだからである。道具が道具であること、道具連関が道具連関であることの背後には、みずから関係し、互いに関係しあう者たちの存在が隠され、顕れている。厳密な意味での関係のなりたちのためには、関係の項となるものがみずから関係し、またすくなくともたがいに関係しうること、つまり関係することと、その相互性が必要である。

<わたし>にとってそのようにみずから関係し、たがいに関係しうる相手は、ただ他者だけである。周囲世界とかかわるとき、<わたし>は同時に他者たち、つまり共同世界とかかわっている。関係がつねになんらかのかたちでなりたってしまうことが、他者という、<わたし>からの差異でもある者の特異さを、日常的な次元でも指ししめしている。日常的な生の水準ですでに、<わたし>は他者たちに対して不断に無関心でいることができない。[しかし、それだけでも十分でない。]
posted by 三好 at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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