2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(1)

他者・道具・神
熊野純彦「他性と超越――<他なるもの>への問い」
(『岩波講座 哲学〈1〉いま“哲学する”ことへ』岩波書店(2008) pp. 161-181.)


内容
一 世界
二 関係
三 他性
四 言語

(書名のないページ数のみの参照は『岩波講座哲学01いま<哲学する>ことへ』へです。書名からのリンクはアマゾンです。)

評者による要約([]内は評者による補足またはコメントです。)




思考のはじまりには問いがあり、他者をめぐる思考のはじまりにも、他者とはなにかという問いがある。日常的な生において、他者という問題に人が囚われるのは、たとえば他者との関係の破綻という経験あってのことだろう。この稿では、日常的な他者のあらわれから論点の推移をたどって、他者がその他性と超越においてあらわれる問題の場をあきらかにする。


世界とは、<わたし>がそこに住まい、そこで他者たちと交渉し、他者たちとともに在る生を紡ぎつづけてゆく場のことである。世界は通常、<わたし>にとって疎遠でなく、世界はおおむね<わたし>を不意打ちし、驚かせることがない。しかし、世界は<わたし>にとって「他なるもの」であり、かえって不断に人に驚異を与え、脅威を与えるものである。<わたし>はじぶんの内部を生きるよりもまえに、世界という外部を生きている。世界は現に<わたし>にとって、十分になじまれ、親しまれたものとなっている。

日常的な生にあって、世界のなかに存在するものは、それ自身なじまれ、熟知されたありかたで出会われる。[以下、ハイデガーの敷衍]机は身のまわりにあるものとして<わたし>の「周囲世界」に属している。机は<わたし>がそこにおもむき、かかわり、「交渉」するものである。日常的な世界で存在するものは交渉する「手」とのかかわりで与えられている。手もとにあることこそが、その存在者が目の前に存在することにほかならない。「異他的なもの」は「邪魔をする」ものであって、「手」で払いのけられるべきものである。見なれないものもまた、手とのかかわりで与えられる。日常的に出会われるものはみな、<わたし>の「まわり」に存在する。有用なもの、頻繁に必要となるものは<わたし>の身のまわりにあり、疎遠なもの、通常は不要なものは<わたし>にとって隔たって存在している。<わたし>にとってなじまれた世界は、同時にまた手ごろさにおいて出会われる世界にほかならない。

もの、とりあえず手もとに存在する存在者との、こうした日常的な交渉のなかで、他者たちもまた出会われている。日常的に出会われるものが、つねに「それのために」や「それに対して」というありかたで見てとられ、手にとられるかぎりでは、日常的に現前する存在者はすべて、それを「そのために」使用する他者をあかしている。日常的な周囲世界はそのつど同時に、ともに在る他者たちの世界、「共同世界」でもある。『存在と時間』のハイデガーにおいては、ものは「世界の側から」出会われ、他者もまた「世界の側から」出会われる。他者という存在者は「手もとに」存在しているのでも、「目の前に」存在しているのでもない。<わたし>という現存在と「ともに現に存在している」。[しかし、それだけではない。]
posted by 三好 at 01:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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