2011年06月25日

他者・道具・神(熊野純彦「他性と超越」)(4.5)



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本論文はハイデガーの道具論やレヴィナスの他者論を踏まえながら、他者について道具、理解、言語などの面から論じたものである。参考になるのは、ハイデガーやレヴィナスの諸説について多少の知識が得られることである。疑問に思われるのは、道具と他者の関係、他者の身体と痕跡、他者とのコミュニケーション、他者と超越についての著者の考えである。以下、吟味していきたい。

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最初に、道具と他者の関係について。著者は三段階の主張をしている。第一に、ハイデガーに基づき、道具の存在から道具が「そのために」存在する他者の存在が認識できると主張している(pp. 165-6)。第二に、レーヴィットに基づき、もの同士は自ら関係せず、<わたし>とものは一方的な関係に過ぎないが、<わたし>とひとは相互に関わりあうことができると主張している(pp. 168-71)。第三に、メルロ=ポンティに反論する形で、道具は<わたし>の身体の延長になるが、他者はそのような関係を逃れていくと主張している(pp. 174-5)。そこで、これらの一つ一つの段階について吟味してみたい。

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第一に、道具の存在から、それが「そのために」ある他者の存在が認識できるだろうか。できないのは明らかだと私は考える。なぜなら、現実には使う人のない道具があふれているからである。例えば、本は情報を得るための道具と考えてよいが、今日の日本では書店に配本された本の約4割が返品されていると言われている。返品される本は使う人のない道具である。このような例は、雑貨や衣服や電化製品など数え切れないほどある。したがって、道具の存在からそれを使用する他者の存在は導かれないと言ってよい。

これに対して、すでに誰かが購入して所有している道具からは、その持ち主の存在が認識できる、という反論があるかもしれない。しかし、これは論点先取だと私は考える。なぜなら、そう主張する人は、その道具をすでに誰かが使用した道具として認識しているからである。この場合、道具の認識に他者の認識が先立っていることは明白である。

また、売られている商品もすでに使用されていると言ってよい、という反論もあるかもしれない。しかし、この反論は成り立たない。なぜなら、その「使用」の意味はもともとハイデガーが意図していたものではないし、日本語の「使用」の意味にも反するからである。後者については、例えば、「それを使っていいよ」という発話が、「それを他人に売ってよい」ということを決して意味しないことから明らかである。

もちろん、道具と他者との間には関係がある。しかし、それは道具にはそれを作った人が必ずいるということである。なぜなら、道具は定義上誰かに作られなければ存在しないからである。誰に作られたのでもないものは、自然物(原材料や燃料、あるいは水や空気や食料など)であり道具ではない。もちろん、道具と自然物の境界例はある(例えば、漬物石やつぶて用の石など)。しかし、その境界性がそもそも道具かどうかの曖昧さをもたらすこと、まったく加工されていない自然物が道具として安定的に(臨時的にでなく)使用されることは極めて稀であること、そして漬物石やつぶて用の石もその大きさや重さなどが用途に適合しているものを選び出さなければならないことから、一般に道具はその使用目的に合った加工を要すると考えてよいだろう。あるいは、その境界例の多くは、本来道具ではないものを道具として使用している、という「として使用する」行為の柔軟性によるものと考えることもできよう。(例えば、大きな葉を傘として使用する。)この場合、何かが道具として使用可能であっても、それが道具であることは導かれない。
posted by 三好 at 00:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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