2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(18) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

4-2-3
本論文の最後に、三つ目の成仏が次のように言及されている。


過去を、それが過去であるかぎりにおいて、さびしむとは、なつかしまれる過去も、くやしまれる過去も、より深いところから肯定し、さらには、痕跡の過剰からする別様の展開も含めて、肯定することも意味しよう。(p. 199)

これまで、大きく分けると三つの意味での成仏を語ってきた。死に際しての成仏を小成仏、死者をさびしむことによる成仏を中成仏と呼ぶとすれば、いま語ったばかりの、わが身の過去の肯定から、万象の過去の肯定まで広がりゆき、深まりゆく成仏を、大成仏と呼べるだろう。ここで小、中、大というのは、この順に広がり深まりゆくように思われるからである。大成仏は、さびしみつつ新しむ生成の極致には違いあるまい。(p. 201)


この大成仏も謎の多い概念である。解釈のための議論が難しいので、それに含まれる論点とそれについての短いコメントを羅列するにとどめる。第一に、過去を肯定するとはどういうことか。くやしい過去や悲しい過去を肯定するというのは、明確に表現すればどういうことだろうか。

第二に、「過去を、……、さびしむとは、……、[過去を]……肯定し、……することも意味しよう」とあるが、なぜ過去をさびしむことがそれを肯定することなのか。

第三に、私が万象の過去を肯定してよいのか。例えば、私が他人の不幸な過去を勝手に肯定するのは少なくとも独善的なのではないか。それから、私が南京大虐殺やアウシュビッツや原爆投下などの過去を肯定してよいのだろうか。

第四に、過去を肯定しさえすれば成仏するのか。万象であれ何であれ、過去を肯定すれば即成仏というのは、「肯定する」の意味にもよるが、いわばあまりに薄っぺらなことのように私には感じられる。

第五に、過去をさびしめば「変成」なしに大成仏するのか。引用箇所によれば、過去をさびしむことは過去を肯定することを意味し、万象の過去を肯定することが大成仏である。とすれば、万象の過去をさびしめば大成仏することになる。しかし、小成仏または中成仏するにはさびしみを新しみに変成することが必要だったのに、なぜ大成仏は違うのだろうか。

第六に、すべての過去を肯定する大成仏は「さびしみつつ新しむ」ことか。著者によれば、そもそも、「さびしみつつ新しむことを、成仏と呼ぶことにしよう」というのが著者独自の「成仏」の定義であった。しかし、引用箇所によれば、大成仏は万象の過去をさびしむことである。そこでは何を新しんでいるのかよくわからない。この直前に、著者が大成仏の例としてあげていると読める、宗左近が「死者たちとともに自らも転生すべき「宇宙海」を、夢みつつ創造した、いいかえれば新しんだのである」(p. 201)という記述はあるが、しかしここの「いいかえれば」は相当に無理であり、またここの「創造」はむしろ「想像」であるから、「新しむ」対象が実在するわけではないし、そもそもこれは宗個人の例であり一般化のしようがない。しかるに、著者自身の定義によって、何も新しんでいなければ成仏ではないはずである。このような「大成仏」がなぜ「さびしみつつ新しむ生成の極致」なのだろうか。また、もちろん、なぜここに「生成」が出てくるのだろうか。何をどうやって生成しているのだろうか。

4-2-4
大成仏と関連して、成仏と風雅の密接な関係が指摘されている。それは次のようなものである。

いま述べたプロセス[差異に満ち、多様な万象を生み出すプロセス]のありようは、そのまま、いまかつて間の異交通のありようでもあろう。風雅が容易に成仏と連接しうるのも、そのことによる。なんらかの自然を友とする新しみへ身をゆだねるにせよ、友とされる自然は、さびしみにもとづいてこそ、はじめて友として肯定されるからだ。(pp. 199-200)


この付近もかなり読みにくい、あるいは私の見るところほとんど意味をなさない部分である。おそらく最大の問題は、「風雅が容易に成仏と連接しうる」と言われてもその真意がまったく読者にはつかめないことであろう。その理由は、第一に、「連接する」という動詞のここでの意味が説明されていないからである。風雅も成仏も記号や物体ではないのだから、一般に使用される意味で連接するのではない。したがって、どのような意味でそれらが連接すると言いたいのか、著者自身が予め説明しなければ読者は理解できない。第二に、著者による「風雅」と「成仏」の定義から、それらはそもそもきわめて互いに類似するものだったからである。すなわち、「風雅」とは「自然を友として、新しみつつさびしむこと」(p. 191)であり、「成仏」とはたびたび言及している通り「さびしみつつ新しむこと」(pp. 197-198)である。両者の違いは「過去性に重きを置く」(p. 197)かどうかである。だから、わざわざ万象の生成の話を持ち出さなくても、これらは当然互いによく似ているはずである。第三に、芸術的な自然鑑賞と宗教的な悟りに共通の精神的な要素があるという趣旨なら、そのことを単に「連接」と表現するのは浅薄または空虚に感じられるからである。本論文の議論はどれも、いわば言葉の上での議論であって、芸術経験や宗教経験の内実を掘り下げたものではない。宗教や芸術の宗教的側面について本格的に論じるには、それらについてのもっと深い考察が必要だろう。

5
以上の検討から、最終的に次のことが言えるだろう。すなわち、本論文は、日本語表現や哲学の用語法そして哲学史的な知識に関して不正確な点が多く、一連の議論に論理的な飛躍や不明確さが目立つ。そのため、その主要な主張のほとんどすべてが理解困難であり、全体像もつかみ難い。また、本論文が拠る基礎理論であるあいだ哲学と交通論については、次のように評してよいだろう。あいだ哲学は、もっぱら二つの対象の関係を問うアプローチであるが、「間」という表現から多くの問題が生じ、また適用範囲が狭いという欠点がある。交通論は、二つの対象の関係を何かの通行と捉えて分析する枠組みであるが、交通の分類および通行するものや異質性の規定などに理論的な不備があるため、応用困難である。本論文に見られる著者によるこれらの理論の適用は、不明確な表現を用いたフレーズを恣意的に当てはめたものであり、学問的な意義に乏しい。

なお、私の主観的な感想であるが、本論文は、哲学とは基本ルールが違う別のジャンルに属する、詩でも小説でも論文でもない独自の読み物であるように感じられた。その領域では、論理的な整合性よりも発想の飛躍が、言語の正確な使用よりも新奇な表現の創造が、反論可能な明確さよりも意味ありげでつかみどころのない曖昧さが、厳密な認識よりも奔放な空想が、そして真理や妥当性よりもある種の意外性や感情の発散が重んじられているようである。その意味で、本論文は哲学講座に収める文章としてはふさわしくなかったように思う。


〈広告〉篠原資明さんの本






posted by 三好 at 03:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/230733174
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。