2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(17) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

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さて、成仏についての記述は次のように続く。


すでに述べたとおり、愛する者や親しい者を失ったとき、人は孤独と無常を、とりわけ痛感する。その者たちは、いまここで現前することはありえない。まさしくさびしまれるほかないのである。ただ、それらとともに失われた時を、直線的な時間観念にのっとってしか考えないならば、死者たちとは反交通のままだろう。ただ、そういった死者たちを、ひたすらさびしむとき、さびしまれる〈かつて〉は、現前しないままに、わが身の生きる〈いま〉を、共時的に、なにか新たなありようへと変成させるように思われるのだ。そうしてはじめて、死者たちとの異交通が起こりえよう。わが身もまた、死者たちをさびしむことによって新しむ、すなわち成仏するのである。(p. 198)


ここでは、二つ目の種類の成仏が説明されている。二つ目の成仏は、端的に言えば、死者をさびしむことによる成仏である。ここも疑問点が多いが、一つ一つ見ていこう。まず、「そういった死者たちを、ひたすらさびしむとき、さびしまれる〈かつて〉は、……」とあるが、ここでさびしまれているのは何か。〈かつて〉は過去であり、時間の一区分であるから、死者とは別である。しかし、引用箇所を自然に読むと、死者をさびしむことと〈かつて〉をさびしむことが同一であるか、さもなければ、死者をさびしむことが自動的に〈かつて〉をさびしんでいることを伴うかのようである。だが、日常経験にもとづいて考えれば、人が亡くなった家族や友人を思い出すときには、その亡くなった人が生きていた過去をさびしく思っているのではなく、その亡くなった人がいない現在をさびしく思っていると言えるだろう。その場合の過去への感情は「さびしい」ではなく、「懐かしい」と表現するのが適切だろう。つまり、その人は現在をさびしみつつ、過去を懐かしんでいる、と言うのが事実に合っていよう。とすれば、死者をさびしむことは、必ずしも過去をさびしむことにつながらないと考えられる。(なお、「死者をさびしむ」という表現が本当は正しくないことは上で論じた通りである。)それに加えて、〈かつて〉の範囲も曖昧であるように思われる。家族や友人をなくした人が過去をさびしむとしても、その過去は故人が属する一定の時期の過去であって、現在に対立する過去一般や抽象的過去ではない。これらの疑問点に関しては、著者の言う「さびしむ」や「新しむ」や「〈かつて〉」の意味が、誤用に由来する面もあって非常に曖昧なので十分な検討が難しい。私の受けた印象としては、ここで相当にずさんな思考がなされているように感じられる。

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次に、「…〈かつて〉は…〈いま〉を、共時的に、なにか新たなありようへと変成させる」とはどういうことか。ここで問題にしたいのは、「共時的に」の意味と「変成させる」の意味である。前者について、「通時的」と対比的な意味の「共時的」を用いて、「xがyを共時的にVする」と述べることはできないのではないか。というのも、その意味での「共時的」は何らかの諸対象の静態的なあり方を意味するのであり、「同時的」のような行為や動作を修飾する副詞句になるとは考えにくいからである。この点からは、先に触れた同時生成としての共時性の問題点も考え合わせると、著者には共時性について奇妙な理解をしているように思われる。後者「変成」について、以前に出てきた「変成」は、人が過去についてのさびしみを現在についての新しみに変成できるという言い方においてであった。しかし、今回の「変成」は、〈かつて〉が〈いま〉を「なにか新たなありよう」に変成させるという言い方においてである。主語も二つの目的語もまったく異なっているので、これを読んだ多くの読者は当惑せざるを得ないだろう。ここでも「変成」は最大限に広い意味での漠然とした「変えること」であり、主語や目的語のカテゴリーを限定せずに自由に使用できると理解するしかなさそうである。

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さらに次に、同じ箇所に関して、「なにか新たなありよう」とは何か。まず、それは何の「ありよう」か。〈かつて〉が〈いま〉を「なにか新たなありよう」に変えるのだから、〈いま〉の新たな「ありよう」だと読めそうである。しかし、そうすると、〈いま〉には古い「ありよう」もなければならない。〈いま〉つまり現在に新旧があるのだろうか。他の候補としては、わが身の「ありよう」だという可能性も考えられるが、だが「わが身の生きる〈いま〉」がわが身の「新たなありよう」に変わるというのは、理解困難である。というのも、わが身が生きるのは〈いま〉以外にないからである。この点については、本論文にはこれ以上議論の材料がないようである。この箇所を著者はあまり深く考えないで書いているのかもしれない。

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さらにまた、同じ箇所に関して、〈かつて〉が〈いま〉を、なぜあるいはどうやって変成するのかという疑問点がある。これについて、著者は「……ように思われるのだ」と言って、根拠なしに主張している。ここは明らかに議論の不備であり、本論文の大きな欠陥である。

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それから、「そうしてはじめて、死者たちとの異交通が起こりえよう」とあるが、死者たちとの異交通とは何であり、そしてなぜ起こるのか。著者が過去と現在の共時性にこだわるのは、それらの間に異交通が生じるにはそれらが共時的でなければならない、という前提があるからだと推測されるが、それはなぜか。関連して、その少し前に、「それらとともに失われた時を、直線的な時間観念にのっとってしか考えないならば、死者たちとは反交通のままだろう」とあるけれども、直線的でない時間観念(ベルクソン的な時間観念のことだろうか)にのっとって考えることがどのように死者たちとの異交通に関わるのだろうか。これらの点は、まったく説明がないまま放置されている。私の側で議論をしようにも手がかりがない。もしかしたらここはベルクソンの哲学に基づくのかもしれないが、著者のベルクソン理解はかなり独特なので(おそらく多くのベルクソン研究者は著者のベルクソン論に反対するだろうと思う。参照、篠原資明『ベルクソン』岩波新書(2006)。極端な印象を与える恐れがあるので、ここに引用はしない)、それを踏まえた議論を十分な手がかりなくフォローするのはきわめて難しい。(ソシュールの共時性・通時性の枠組みが直線的な時間観念に基づいていたことも想起されたい。)また、著者が具体的にどのような現象ないし行為を生者と死者の異交通と考えているのかも、私には想像し難い。

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さらにまた、「わが身もまた、死者たちをさびしむことによって新しむ、すなわち成仏する」というところで、わが身は何を新しむのだろうか。目的語が省略された日本語文の読みでは、死者たちをさびしむことによって死者たちを新しむ、と解するのが自然だが、しかしこの読みは著者のこれまでの議論を考慮すれば奇妙だろう。なぜなら、同一の対象をさびしみかつ新しむという例は著者の著述にこれまで一度も現れていないようであるし(多くは目的語を省略した形であるが)、またそれは意味から考えてある種の矛盾を含むだろうからである。とすれば、ここで何を新しんでいるのだろうか。目的語の省略文の別の読み方をすれば、「わが身」を目的語と取り、死者たちをさびしむことによってわが身をもまた新しむ、と解されるが、そう読むと今度は、「さびしむ」「新しむ」「成仏する」の主語が行方不明になる。そうかといって、ある名詞句が一連の二つ以上の動詞の主語であり、かつその中の二つ目以降の動詞の省略された目的語であるというのは、特殊な文脈でない限り、文法的に考えにくいだろう。(例えば、「私は子供を抱っこすることによって落ち着かせた」という文を、私は私を落ち着かせたという意味に読むことは通常できない。)よって、この読みもにわかには採用し難い。そこで、上で触れた「xをさびしみつつyを新しむ」というとき、xとyは何らかの観点から見て対照的であるという仮説を当てはめると、ここでさびしまれているのは関係ある特定の死者であるから、それと対照的なもの、つまり関係ある特定の生者が新しまれているはずである。おそらく、生者一般ではあまりに広すぎるだろうし、無関係な特定の生者はここに出てくる理由がない。しかし、新しまれているのが関係ある特定の生者だとしても、それは誰か。それは結局、さびしんだり新しんだりしているその当人と考える他ないようである。このように見てくると、「わが身」が目的語であり、かつ主語であると解して、ここにも文法的に破格の文があると受け取らざるを得ないだろう。

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この解釈が正しいなら、次の疑問は、わが身を新しむとはどういうことか、あるいは、なぜわが身を新しむことができるのかということである。これについても、表現が曖昧なことと、考える手がかりが本論文にないことが、理解の障害になる。もしかしたら、「私」や「自分」ではなく「わが身」と言っている点に特殊な意味があるのだろうか。しかし、詳しく議論しないで、先へ行った方がよいだろう。

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最後に、〈いま〉の変成と死者との異交通とわが身の成仏にはどのような関係があるのか。引用箇所の後半をここでもう一度引くと、

ただ、そういった死者たちを、ひたすらさびしむとき、さびしまれる〈かつて〉は、現前しないままに、わが身の生きる〈いま〉を、共時的に、なにか新たなありようへと変成させるように思われるのだ。そうしてはじめて、死者たちとの異交通が起こりえよう。わが身もまた、死者たちをさびしむことによって新しむ、すなわち成仏するのである。(p. 198)


となっている。これら三つの出来事の間には、因果関係らしいものがあるかのようである。しかし、それはもっと具体的に言って、どのような関係だろうか。ここで起こる出来事の順番は、
1人が死者をさびしむ
2その人は〈かつて〉をさびしむ
3〈かつて〉はその人の〈いま〉を「新たなありよう」に変成する
4その人と死者との異交通が起こる
5その人はその人自身を新しむ
6その人は成仏する
というものである。この中で、1と2と3のつながりがはっきりしないことはすでに論じた。5から6へのステップは、「さびしみつつ新しむことを、成仏と呼ぶことにしよう」という「成仏」の定義の当てはめであろう。残りは3と4と5がどうつながっているかであるが、ここもやはり本論文の記述が非常に不明確なため、この問いに関して意味のある結論を導くのは難しいと考えざるを得ない。ここで著者の脳裏にはどのような情景が描かれていたのだろうか。

posted by 三好 at 03:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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