2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(16) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

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次に、著者の独自性がかなり強い、成仏についての考え方を検討してみたい。本論文の結論的な部分で、次のように著者は成仏についての議論を始める。


これ[人生パノラマ回顧のベルクソンによる説明]を、本論で展開してきた理論の枠組みでいえば、死を目前にするや、人は、さびしむほかなくなるのだと解釈できる。ただ、さびしむことに徹することによって、すっと、それまでにない新しみへと変成できるのではないか。このように、さびしみつつ新しむことを、成仏と呼ぶことにしよう。(pp. 197-8)

この記述は特に理解困難で読み進めにくい。疑問点をあげて考えてみよう。第一に、そもそもここに述べられたことをなぜ唐突に「成仏」と呼ぶのか。著者は上の引用箇所の直後に次のような理由を付している。

確かに、成仏本来の意味は、悟りを開くことにより、仏と同じ境地に立ちいたることであって、単に死ぬことをいうのではない。しかし、死に際して起こりうることを推理しつつ、考慮しなければ、成仏論も、宗教も、ひいては哲学も、空論と化すように思われるのだ。(p. 198)

しかし、明らかに、この説明は「さびしみつつ新しむことを、成仏と呼ぶ」理由になっていない。また、「死に際して起こりうることを推理しつつ、考慮」するにしても、もっと適切なやり方がいくらでもあるだろうと思う。さらに、それを芸術論の中で行う必要性もよくわからない。芸術の創作や鑑賞に成仏が不可欠だというような主張は本論文にない。したがって、ここでの著者による「成仏」の使用は恣意的で奇妙なものだと思わざるを得ない。

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第二に、「さびしむことに徹することによって、すっと、それまでにない新しみへと変成できる」というのはどういう意味か。「さびしみ」や「新しみ」についての疑問点はすでに述べた。それ以外には、まず、これは主語がない文なのでそのままでは意味が通じない。それを補うと、文脈から見て「死を目前にした人が」だろうと思われる。しかし、そうすると、さびしんでいた人が新しみに変成することを意味することになる。さすがに、人が新しみになるというのは奇妙だろう。そこで、文法的には破格だが、問題の文を、死を目前にした人が「さびしむことに徹することによって、すっと、」そのさびしみを「それまでにない新しみへと変成できる」と解釈することにしよう。

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では次に、「すっと」とはどういう意味か。広辞苑によれば、「すっと」という副詞には、「1瞬時に音もなく行われるさま。「ドアがすっと――」「――通る」2まっすぐにのびるさま。狂、萩大名「――出た枝を見たか」「眉を――引く」3わだかまりかとれて気が晴れるさま。「胸が――する」」とある。さびしみの新しみへの変成は物理的な運動ではないから、1と2は当てはまらない。それはまた、気分が晴れることとも違うから3でもない。したがって、どれでもないということになる。とすると、「すっと」は比喩的なまたは気分的な描写であって、哲学的な説明の役に立っていないと言えるだろう。そこで、問題の文からは「すっと」を除いて解釈すべきことになろう。すなわち、「さびしむことに徹することによって、すっと、それまでにない新しみへと変成できる」は、死を目前にした人が「さびしむことに徹することによって」そのさびしみを「それまでにない新しみへと変成できる」という意味だと解される。

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さらに、ここでの「新しみ」は何についての新しみか。これまでの本論文の記述では、「過去をさびしみつつ現在を新しむ」という表現が多く用いられてきたので、ここでも現在についての新しみだろうか。しかし、こう解釈すると、「それまでにない」という修飾句と衝突しそうである。というのも、それまでにあった新しみとは、現在についての新しみのはずだからである。本論文全体を通じて著者はこの表現を目的語を明示する形ではほとんど使用していないが、おそらく「xをさびしみyを新しむ」という場合には、例えば、過去と現在、自然と人間などのように、xとyは何らかの観点から見て対照的でなければならないと推測される。そこで、本論文のこの箇所と関わるようなさびしみと新しみとの対照的な組み合わせとしては、過去と現在または未来、私と他者、生と死、存在と無、現世と来世、此岸と彼岸、伝統と革新などが考えられる。一方、ここでの「さびしみ」は過去についてのものであることは、問題の文が死に直面した人が見る人生パノラマ回顧の話からつながっていることから明らかである。すると、ここでの新しみは未来か現在かについてであるが、著者のこれまでの議論は過去と現在または〈かつて〉と〈いま〉に限定されていて、未来や将来にはまったく言及していない。よって、ここでの新しみは現在についての新しみだと考えるしかないようである。そこで、「それまでにない」は、やや言葉足らずだが、おそらく新しみの量ないし強度がそれまでになく大きいという趣旨の省略表現だとすれば理解できなくもないだろう。ゆえに、「さびしむことに徹することによって、すっと、それまでにない新しみへと変成できる」は、死を目前にした人が過去を「さびしむことに徹することによって」そのさびしみを「それまでにない大きさ(または強さ、深さ、激しさ等々)の、現在についての新しみへと変成できる」ということだと解する。

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それから、「変成」とは何か。再び広辞苑を開くと、「変成」とは「形が変わってできること。形を変えてつくること。」とある。しかし、さびしみや新しみには形がないのだから、この意味はここでの「変成」には当てはまらない。よって、ここでの「変成」は著者独自の意味で使用されていると考えられる。しかし、使用例が少数なのでその意味を推測するのは難しい。よって、いろいろな種類の変化を含む漠然とした意味での「変えること」と理解するしかないだろう。著者は、「生成」や「異質性」と同様に、その厳密な意味や定義を考えないまま、好きな言葉を使用しているだけかもしれない。そこで、「さびしむことに徹することによって、すっと、それまでにない新しみへと変成できる」は、死を目前にした人が過去を「さびしむことに徹することによって」そのさびしみを「それまでにない大きさ(または強さ、深さ、激しさ等々)の、現在についての新しみへと変えることができる」ということだと解する。

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問題の文の意味を踏まえた上で第三の疑問点として、なぜ過去についてのさびしみを現在についての新しみに変成できるのか。これについてはまったく根拠が示されていない。言うまでもないが、「すっと」という描写は何の根拠にもならない。よって、ここでは根拠のない主張がなされていると言わざるを得ない。このような飛躍があることは、哲学の論文としては大きな欠点である。

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そして最後の疑問点として、このようにしてさびしみが新しみにかわったのに、なぜ「さびしみつつ新しむことを成仏と呼」ぶのか。というのも、新しみに変成した以上、それまで死を目前にして過去をさびしんでいた人はもはやさびしんでいないはずだからである。それゆえにこそ、その新しみは「それまでにない」ものとなるのであろうし、かつ、それこそが、ここで「成仏」という言葉を用いたくなる動機なのではないか。(過去に未練を残している状態を、どのような意味であれ「成仏」とは呼びにくいだろう。)そうだとすれば、さびしみを新しみに変成した人のあり方を「さびしみつつ新しむこと」としての「成仏」だと述べることは、実はできないはずである。この点についても本論文中に解決の手がかりは見当たらない。よって、著者の思考には混乱ないしかなりルースな面があると評してよいだろう。

posted by 三好 at 04:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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