2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(15) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

4-1-3-2
a
著者はその見方をさらに現代美術にも当てはめて、次のように主張する。


また、ポストモダニズムを、過去を友とすることとして再定義するなら、たとえば引用という行為によって、引用を取りこむ側の作品も変われば、引用される側の過去の作品の見方も変わるのである。〈形のモダニズム〉については、それを、たとえば色や音や言葉それぞれの質を友とする行き方としてとらえなおしてみては、どうだろうか。色と人との異質性を保持しつつ、そのあいだにさらなる異質性を生成させること。それこそ、多くの画家が試みていることだろう。あらためて、芸術を異交通装置として定義する次第だ。(p. 195)


しかし、この箇所もたくさんの問題点を含んでいる。「友とする」ことと異質性の基本的な曖昧さは上で論じた通りである。それ以外の疑問としては、ポストモダニズムでは異質であるのが人や自然でなく作品と別の作品の見方であるのはなぜか。この場合に限って、異交通が成り立つのが人と人が芸術を介して関わるものの間でなく、古い作品の見方と新しい作品の間であるとするのは、実質的に芸術の定義の変更ないしは撤回に等しいのではないか。

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また、「引用という行為によって、引用を取りこむ側の作品も変わ」るというのはなぜか。というのも、引用を含む作品は引用を伴って完成するのであり、ゆえに引用以前には存在していなかったからである。つまり、引用を含む作品に引用以前以後があるのではなく、ゆえに引用による変化が生じるのではない。もし完成以前の段階の作品を考慮するのであれば、それは異交通によるさらなる異質性の生成ではなく、未完成のものが完成する創作の過程だと言うべきであろう。さらに、「引用される側の過去の作品の見方も変わる」ことを異交通の結果と言うのも的を失している感がある。確かに、引用されることによって過去の作品の理解や評価が変わることはあり得るが、それは常にそうだというわけではない。そして、新作の制作によって旧作に対する見方が変わるのは、引用を含まない作品でもしばしば起こることである。この種の事例は、浮世絵と印象派といった異文化レベル、中世絵画とルネサンス絵画といった時代レベル、前期印象派と後期印象派といった流派レベル、そしてピカソの青の時代とキュビズム期そしてその後といった画家の個人史レベルのいずれでも見られるだろう。引用による過去の作品の見方の変化が、どのような点でこれらの例とは異なるのかを知るには、それが異交通を生み出しているかどうかよりも深い分析が必要であろう。

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それからまた、このポストモダニズムへの異交通の当てはめでは、その異質性の生成の意味が異なっていることにも注意しなければならない。すなわち、もともとの異交通の定義では、それによって生成される異質性は、AとBの間の異交通によりAとBが互いに異質になるという意味での異質性であった。ところが、上の引用によるとポストモダニズムにおいては、AとBの間の異交通によって、Aはそれ以前のAに対して、Bはそれ以前のBに対して、それぞれ異質になると説明されている。著者はこれを「二重生成」と呼んでいるけれども(本論文でははっきりしないが、篠原資明編著『現代芸術の交通論』丸善(2005), p. 103にそう明記してある)、「異交通」の定義との論理的な一貫性を欠くと思われる。

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そして「色と人との異質性」とは何か。「それこそ、多くの画家が試みていること」となぜ言えるのか。色と人はあまりに違いが大きすぎて、どのように異質なのか、そしてどうしたら異交通によってより異質なものにできるのかがきわめてつかみにくい。少なくとも美術史上の具体例を一つでも示さなければ、多くの読者にとってはいい加減なことを言っているような印象を拭い難いだろう。そこで、著者の他の著作を参照してみると、私の読んだ範囲では、「色と人との異質性を保持しつつ、そのあいだにさらなる異質性を生成させる」例はないようである。むしろその逆と思われる事例の方が目につく。例えば、イヴ・クラインである。

海綿彫刻に話を戻せば、このシリーズについて、イヴは注目すべきことを述べていた。「〔海綿は〕私のモノクロームを見る人たちの肖像だった。彼らは私のモノクロームを見、私の絵画のブルーのうちを旅した後で、海綿のように、感性をすっかりそれに浸透されて戻ってくるのだ」と。(『現代芸術の交通論』p. 126)


観客が作品により「感性を……すっかり浸透され」ることは異交通でなく、いわば同交通による徹底的な同質化だろう。なお、異交通との関連では、著者はこの例を「色と香りの異交通」(前掲p. 126)と考えている。

それから、著者の解釈する草間彌生もあげてよいだろう。著者は草間について次のように述べている。

こういった草間の活動を解く鍵のひとつは、……、……重重帝網の思想のうちにあるように思われる。重重帝網とは、空海が即身成仏を語るときに持ち出す言葉で、帝釈天の宮殿をおおう網の珠ひとつひとつが互いに映りあうさまをいう。/重重帝網の思想を、空海は華厳の経典から得ていた。……。この思想により、空海は、自己と宇宙との相互透入のうちに、こわばった自分へのこだわりを溶かし去ろうとした。(前掲p. 147-8)


「自己と宇宙との相互透入」というのは、おそらく同質化をさらに超えた自己と宇宙の同一化であり、よって色(宇宙の一部)と人との異質性を完全に消滅させるものと考えられよう。すなわち、これはいわば究極の同交通であろう。

著者の「形のモダニズム」はモダニズム一般のことであるから、イヴ・クラインも草間彌生もそれに含まれるはずである。(イヴ・クラインの例は「宇宙と風雅モダニズム」という章にあり、その文脈から著者がモダニズムの作品としてとらえているのは明らかであろう。)したがって、これらは「色と人との異質性を保持しつつ、そのあいだにさらなる異質性を生成させる」という「形のモダニズム」についての著者の主張に対する反例になっている。さらにまた、これらは何らかの同質性を生じさせる美術作品の例であるから、芸術を異交通装置として捉える見方そのものへの反例にもなっているだろう。

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それからもちろん、ここで異質であるのが人と自然でも作品と別の作品の評価でもなく、人と創作に用いられる色や音や言葉の質であるという点は、「異交通装置」という表現自体が同じでも、芸術の定義としては一貫していないと言えるだろう。というのも、何が何と何をどのように異質化するのかがジャンルや様式ごとに大きく違っていて、おそらく著者以外の誰も予測できないだろうからである。なお、「何が」にあてはめられるものは、私の見る限り、少なくとも作者・作品・創作行為または過程・鑑賞体験の間で個別事例ごとにぶれがあるようである。

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最後に、私の素朴な感想だが、上の本論文からの引用箇所の末尾で「あらためて、芸術を異交通装置として定義する次第だ」と著者は言っており、これは以上のような多くの問題点に著者自身まったく気づいていないことを示しているように見える。この点は、特に言う必要もないことを言うことによって、著者が哲学的な自己吟味の力の弱さを自ら暴露しているように感じられるところであり、もう少し注意深く書くべきではなかったかという気がする。

posted by 三好 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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