2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(14) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

4-1-2-3
a
本論の過去と現在の間の生成の問題に戻る。問題にしている箇所を再掲する。


直線的な時間観念をもってすれば、現在が生起するには、過去は過ぎさらねばなるまい。そのような観念からすれば、過去は、かつての〈いま〉にほかならず、人は、こうして失われていく〈いま〉をさびしむことになるだろう。しかし、〈いま〉は、それが過ぎさってはじめて過去となるのではない。〈いま〉が事後的に〈かつて〉になるのではなく、〈いま〉と〈かつて〉が共時的であるからこそ、生成変化は起こるのである。現在と過去のあいだを、直線的な時間観念にもとづく反交通で割りきるのではなく、現在と過去との共時性にもとづく異交通の様態から再考すればどうなるだろうか。/ここで異交通とは、異質性を保持しつつ、さらなる異質性を生成させる様態をいう。現在と過去のあいだは、異質でありつづける。さもなければ現在は現在でなく、過去は過去でなくなるだろう。また、異質でありつづけるからこそ、さらなる異質性を生成させる。すなわち、現在は別様となりつづけ、過去もまた別様となりつづけよう。このように別様になりつづける〈いま〉こそが新しいのであり、別様になりつづけるからこそ〈かつて〉は、つねにすでに、さびしいのである。(p. 187)


この箇所には、第三に、現在と過去との共時性にもとづく異交通に関する多くの問題点がある。最初の問題は、〈いま〉と〈かつて〉の間にどのような交通が成り立つのか、言い換えれば何がどうやって通行するのか、という問題である。著者の言うのが「交通」である以上、それが生じるところには通行するものがなければならない。さもなければ、著者による反交通・単交通・双交通の区別も無意味になるだろう。しかし、何がどのような方法で〈いま〉と〈かつて〉の間を通行するのだろうか。著者はそれらが共時的であることを繰り返し指摘するが、上で吟味したところではそれは正しくないし、またそれらが何らかの意味で共時的であったとしても、だからといってそれらの間に交通があるとは限らないはずである。というのも、繰り返しになるが、交通があるためには何かが通行しなければならないからである。この何が通行するのかについての不明確さは、著者の交通論をきわめて理解しにくいものにしている最大の原因の一つであるように思われる。

b
次の問題は、異交通の結果何が生成するのかという問題である。著者は異交通の結果異質性が生成されると述べているが、その異質性とは具体的に何か。というのも、異質性それ自体は性質ではなく、性質(あるいは状態、行為、関係等々)間のまたはその性質を持つ実体(基体、存在等)間の関係だからである。(念のために付け加えると、異質性は単純な非同一性ではない。)例えば、AとBが異質であるのは、Aが白くてBが黒いとか、Aが大きくてBが小さいなどという、それぞれの対象の性質が対比される場合である。ゆえに、前にも触れたが、二つの対象が異質か同質かは、問題となる性質またはそれを持つ対象がどのように記述されるかによって決定される。例えば、白いAと黒いBは、白と黒としては互いに異質だが、モノクロームまたは有色のものとしては同質である(それぞれカラフルなものまたは無色のものに対立する)。さらに問題となる性質が共範疇的である場合には厄介なことになる。例えば、小さいネコと大きいネズミは、小さいものと大きいものと見るなら異質である。この見方を推し進めると、小さいネコが小さくなるほど、あるいは大きいネズミが大きくなるほど、ますます異質性が高まることになろう。しかし、むしろそれにより、それらのネコとネズミの客観的な大きさは互いに近づくことになる。すなわち、それらは同質的になる。ゆえに、この場合異質性と同質性が同時に高まることになる。したがって、異交通により異質性が生成されるとき、単に2つのものが互いに異質になると言うだけでは不明確であり、具体的にどのような性質について異質性が生成するのかまで指摘しなければならない。なお付言すれば、「異質性が生成する」という場合の「生成」とはどういうことかという、用語法上の問題もここにはある。

c
三つ目の問題は、異交通の方がそれ以外の交通よりもよいのかという問題である。著者は異質性を生成する異交通とそれ以外の交通を対比させて、明らかに異交通の方が望ましいものとして扱っている。しかし、この扱い方にも問題がある。第一に、異交通の方が他の交通よりも望ましいというのは根拠に欠ける。日常的な観察では、同質性が高まる方が望ましいとされる場合も少なくない。例えば、コミュニケーションがそうである。コミュニケーションが成功すると、その参加者は知識や信念、あるいはより広く言って情報を共有する。この場合、異質性と同質性の二分法に当てはめれば、同質性が高まったことになるだろう。コミュニケーションが失敗すると、その参加者は互いを誤解する結果となる。これは異質性が生成された例だと言えるだろう。すなわち、コミュニケーションは同質性を高める方が望ましい交通の一例である。とすれば、一般に異質性を生成する異交通が無条件に望ましいとは言えないことになるだろう。

第二に、異交通かどうかは単純な二分法であり、評価の枠組みとして不十分である。言うまでもないが、二つのものの関係はさまざまである。したがって、それらが単に異質か同質かだけに着目する著者の交通論は、分析の枠組みとしてきわめて貧弱だと評さざるを得ない。この点はすでに論じたところから明白だろうと思う。

4-1-3
4-1-3-1
以上の議論を踏まえて、著者の芸術論について吟味してみたい。著者は芸術を異交通装置として定義している(p. 195)。そして、この定義に基づいて次のように論じる。

〈風雅モダニズム〉の場合、自然を友とするとは、人と自然の異質性を保持しつつ、さらなる異質性を生成させることに他なるまい。いいかえるなら、人と自然の間に二重生成を生起させることである。こうして、自然の感取の仕方も、芸術の感取の仕方も、変質することになるのだ。(p. 195)


ここは、少なくとも私が読む限り、きわめて理解困難な箇所である。非常に疑問点が多い。まず、人と自然の異質性とは具体的に何か。次に、ここで言う「人」は作家個人か、読者・鑑賞者一般か、それともある文化圏に属する人々か。また、「自然」とは何か。例えば、花鳥風月的ないわば文芸化された自然か、それとも生活環境である日本的風土としての自然か、あるいはより一般的な自然科学の対象としての自然か。あるいは、生態系ないし環境全体としての自然か、それとも個別の自然現象や動植物のことか。さらには、自然それ自体なのか、それとも自然観なのか。そして、「自然を友とする」ことでどうしてその異質性が保持され、その上さらなる異質性が生成するのか。異質性に関する問題は上で論じた通りである。それに加えて、なぜ「自然の感取の仕方も、芸術の感取の仕方も、変質する」のか。さらに、「変質」とは何か。「変質」したのに、文化的伝統が受け継がれるのだろうか。むしろ、本論文で引用された芭蕉の「西行の和歌における、宗祇の連歌における、……、其貫道する物は一なり」(p. 192)という発言は、それらが変質しないことを明らかに意味するのではないか。これらの疑問に対して、少なくとも本論文には答えの手がかりがほとんどなく、その点で議論が非常に不十分であるように私には思われる。
posted by 三好 at 04:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/230734550
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。