2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(13) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

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本論文には〈いま〉と〈かつて〉がなぜ、あるいはどういう意味で、共時的なのかについての他の手がかりはないようである。そこで、著者の別の本を参照すると、次のような記述がある。

このような[知覚と思い出には絶対的な差異があるという]観察は、過去と現在との深い意味での共時性へと導く。もし知覚が思い出となるために、ひいては現在が過去となるために、その程度を弱めさえすればよいとするなら、知覚はのちに思い出となり、現在はそれが生起したのちに過去となるだろう。ところが、知覚と思い出とが、あるいは現在と過去とが、本性の差異を持つ以上、思い出は知覚と同時に生成し、過去は現在と同時に生成すると見なさざるをえない。(篠原『ベルクソン』pp. 25-6.)


すなわち、思い出(souvenir)と知覚は本性が異なるが同時に生成するから、過去と現在は同時に生成する、よってこれらは「深い意味で」共時的だということである。しかし、この主張にはかなり大きな問題がある。

第一にそもそも、著者の意図する「共時性」がどうして「深い意味での共時性」だと言えるのか。何であれある表現のそれまで知られていなかった意味を発見するには、そのための厳密な手続きが必要である。日常的に使用される表現の意味を知るには、その表現の使用例を一定数調べなければならない。専門的用語の場合は、その有力な典拠となるテキストの解釈が不可欠である。そうでなければ、どちらの場合もその表現の「深い意味」とされるものが本当にそうかどうかが確認できないからである。したがって、「共時性」がどのような意味を持つかは、ソシュールなりユングなりのテキストを調べなければわからないことである。また、表現の再定義をする場合には、古い定義にどのような問題があるか、そしてそれが新しい定義によってどのように解決されるかを説明すべきである。しかし、著者は、少なくとも私の読んだ限りで(他の著作への参照はない)、それらの手続きをすべて省いて「共時性」の「深い意味」を主張している。これはかなり独りよがりな議論だと評されてもやむを得ないだろう。

第二に、本性が違うからといって、どうして知覚と思い出が同時に生成されるのか。ここで本性が違うと言われているのは、思い出が「弱められた知覚」(『ベルクソン』p. 27)ではないということである。つまり、知覚が思い出に変化するわけではないのだから、知覚と思い出は同時に生成されるという推論である。しかし、この推論には飛躍がある。本性の相違は同時生成を含意しないからである。むしろ、一般的な観察では、二つのものが異なる本性を持つことはそれらが同時に生成しないことの蓋然的な証拠になるだろう。また、知覚と思い出は共通の内容を持つのだから知覚がなければ思い出もないが、しかし、思い出がなくても知覚はあると考えられる。そうだとすれば、同時でなく知覚が先に思い出が後に生成する可能性がある。

第三に、知覚と思い出が生成するとはどういうことか。著者の言葉遣いでは「生成」というのは存在から無への単交通、または過去と現在の間の異交通のことであった。ここで知覚と思い出が個人の主観の中で「生成」されるという記述はやや奇妙ではないか。

第四に、知覚と現在、思い出と記憶は同じか。上で引用した文献では詳しい説明もなく、過去と思い出、現在と知覚が同じものとして扱われている。しかし、これはおかしい。なぜなら、知覚がないから現在がないとは言えないし、思い出がないから過去がないとも言えないからである。例えば、私が一定時間意識を失っていた場合、その間知覚を持たなかったし、その間の思い出も持っていない。しかし、それらの知覚や思い出がないからといって、現在や過去がないわけではない。生前の過去や死後の現在を想像することもできる(大森荘蔵的な問題はあるかもしれない)。また、記憶の喪失を思い出の喪失と考えてよいならば、これも思い出がなくても過去はあることの一例となる。ベルクソンは受け入れないのかもしれないが、知覚内容がすべて記憶されていると主張するには経験科学的な正当化が必要である。

第五に、現在と過去が同時に生成するとはどういうことか。仮にこれまでの著者の議論をすべて受け入れたとしても、非常に疑わしい点がまだ残っている。それは、現在と過去が同時に生成するという主張である。まず、現在と過去が生成するということはどういうことか。上でも触れた著者のベルクソン解釈を踏まえた基本的な立場は、生成とは存在から無への単交通ではなく過去と現在の間の異交通であるということなのだから、過去と現在それ自体が生成するという主張はこれと矛盾するだろう。もし、その立場を離れて新しい枠組みの中で過去と現在が生成すると主張するのであれば、その新しい生成の枠組みについて説明すべきである。(その場合、二種類の、あるいは知覚と思い出のそれも入れれば三種類の生成があることになるだろう。)次に、現在と過去が同時に生成するというその同時性も問題となる。論理的に考えて、どのような出来事のものであれ同時性の成立は何らかの時点を前提にするだろう。しかし、そこにおいて過去と現在が生成する時点は、過去でも現在でもないし、もちろん未来とも考えられない。これに対して、いかなる時点も前提にしない同時性はあり得るだろうか。複数の何らかの事柄が無時間的に互いに対応して成立することがあるとすれば、数学的な命題の成立などのように、同時性ではなく同値性あるいは同義性と解するべきであろう。なぜなら、それらは無時間的である以上、時間に関わらないからである。とすれば、過去と現在が同時に生成するという主張はおかしいと言わなければならない。

最後に、同時に生成されたから「共時的」と言ってよいか。仮に、著者が主張するように過去と現在が同時に生成したとすれば、過去と現在は共時的なのだろうか。おそらく、ここで著者が意図しているのは、生成の同時性が「深い意味での」共時性だということであろう。しかし、その見方には疑問がある。というのも、通時性と対比される点を考慮すれば、むしろ共時性はどれほど広く解しても生成の同時性から区別されるべきだからである。その理由は、第一に、複数の対象は生成が同時でなくてもある時点で共時的であり得るし、また生成が同時であってもその後のある時点で共時的でないことがあり得ること、そして第二に、複数の対象を共時的なものとして捉えることはその時間的なまたは歴史的な起源を問題にしない機能的なアプローチであること、である。これらから、生成の同時性を深い意味であれ何の意味であれ共時性と見なす著者の立場は正しくないと私は考える。

なお、付け加えれば、過去と現在が同時に生成するという上の引用部分は、本論文(「あいだ哲学論考」)の記述と矛盾するようである。一度触れたが、本論文に次のような記述があった。

〈かつて〉は、確かに〈いま〉と共時的であり、また、そうであればこそ、いまかつて間の異交通も生起しうる。それでも、だからといって、〈かつて〉が〈いま〉に現前できるわけではない。(p. 199)


「〈かつて〉が〈いま〉に現前できるわけではない」というのは非常に曖昧な表現だが、「思い出は知覚と同時に生成し、過去は現在と同時に生成する」という上の引用箇所の指摘と食い違っているようにも読める。ただし、これらは別の著作の部分であるから、あまり厳密に整合性を求められないのかもしれない。

posted by 三好 at 04:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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