2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(12) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

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一方、著者は過去と現在の間の生成について次のように述べる。


直線的な時間観念をもってすれば、現在が生起するには、過去は過ぎさらねばなるまい。そのような観念からすれば、過去は、かつての〈いま〉にほかならず、人は、こうして失われていく〈いま〉をさびしむことになるだろう。しかし、〈いま〉は、それが過ぎさってはじめて過去となるのではない。〈いま〉が事後的に〈かつて〉になるのではなく、〈いま〉と〈かつて〉が共時的であるからこそ、生成変化は起こるのである。現在と過去のあいだを、直線的な時間観念にもとづく反交通で割りきるのではなく、現在と過去との共時性にもとづく異交通の様態から再考すればどうなるだろうか。/ここで異交通とは、異質性を保持しつつ、さらなる異質性を生成させる様態をいう。現在と過去のあいだは、異質でありつづける。さもなければ現在は現在でなく、過去は過去でなくなるだろう。また、異質でありつづけるからこそ、さらなる異質性を生成させる。すなわち、現在は別様となりつづけ、過去もまた別様となりつづけよう。このように別様になりつづける〈いま〉こそが新しいのであり、別様になりつづけるからこそ〈かつて〉は、つねにすでに、さびしいのである。(p. 187)


この記述にもかなり理解困難な点がいくつかある。第一に、「〈いま〉が事後的に〈かつて〉になるのではなく、〈いま〉と〈かつて〉が共時的であるからこそ、生成変化は起こるのである」というのはどういうことか非常に理解しにくい。おそらく、文脈から考えて、「〈いま〉と〈かつて〉が共時的である」ことは、それらが直線的な時間観念とは別の時間観念の下にあることを意味している。したがって、直線的な時間観念の下では〈いま〉と〈かつて〉は通時的であり、そこでは生成変化は起こらないことをまず意味しているものと思われる。しかし、それはなぜかが疑問である。というのも、かつてなかった対象がいまあることが生成であり、かつてあった状態といまある状態が異なっていることが変化であるから、〈いま〉と〈かつて〉それ自体が通時的か共時的か(それが何を意味するにせよ)は生成変化のあるなしに無関係と考えられるからである。

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第二に、〈いま〉と〈かつて〉が共時的であるとはどういうことか。「共時的」はソシュールの言語学に由来する観念であり、多くの場合、共時的であることは通時的であることと対比的で、後者が一定の範囲で対象の歴史的なまたは時間的な変化に対する研究あるいはその観点から見られた対象のあり方のことであるのに対して、前者は特定の時点における対象の体系または構造に対する研究あるいはその観点から見られた対象のあり方のことである。しかし、ここで注意しなければならないのは、著者がベルクソンの時間論を踏まえていることと、次のように〈いま〉と〈かつて〉が同時に現前するのではないと言っていることである。

しかし、なつかしまれる過去にしたところで、それが過去であるかぎりは、現前することはできない。〈かつて〉は、確かに〈いま〉と共時的であり、また、そうであればこそ、いまかつて間の異交通も生起しうる。それでも、だからといって、〈かつて〉が〈いま〉に現前できるわけではない。(p. 199)


そこで、まず〈いま〉と〈かつて〉をそれぞれ現在の事象と過去の事象と解すれば、もちろんこの著者の主張は常識に一致することである。だが、〈いま〉と〈かつて〉は同時に現前しない以上、どの時点においても、ソシュールの共時的な言語学が想定するような静態的な体系を構成しないと言える。つまり、このような〈いま〉と〈かつて〉は当然ながら通時的な連関にあり、よって、〈いま〉と〈かつて〉は共時的な言語学におけるような意味で共時的ではないと考えられる。

一方、〈いま〉と〈かつて〉を何らかの抽象的な概念として捉えれば、それらは概念として同時に現前できるという立場からは、その点で上の著者の主張は誤っていると言える。例えば、「過去は現在よりも古い」と私が判断するとき、過去概念と現在概念が私の精神や理性に対して現前しているとこの立場からは言えるからである。ただし、概念は知覚と違って現前するとは言えないという立場に立てば、〈いま〉と〈かつて〉は同時に現前せず、しかも上の意味で共時的であることができるかもしれない。これらは「現前」をどう解釈するかによるだろう。しかし、どちらの場合であれ、抽象的な概念としての〈いま〉と〈かつて〉は、著者やベルクソンの言う直線的な時間観念の下にあることになると考えられる。なぜなら、抽象化された〈いま〉と〈かつて〉は知性的に把握可能な静態的な関係によって規定されているからである。すなわち、ベルクソン風に言えば、空間的に捉えられているからである。例えば過去・現在・未来であれ、その他の時制やアスペクトであれ、抽象的概念としては直線的に並べたり一定の順序を付すことができるものとして理解されているだろう。一般的に言い換えれば、しばしば使用される意味で共時的であるような体系はすでに空間化されており、ベルクソン的な真の時間ではありえないだろう。したがって、ベルクソンを踏まえる限り〈いま〉と〈かつて〉が共時的であるとは言えないと私は考える。

これに対して、それではベルクソン的な過去と現在は通時的なものかという疑問があるかもしれない。私は、その疑問に対して、それらは通時的でも共時的でもないと考える。というのも、共時的・通時的という枠組み自体、直線的な時間観念に基づいているからである。実際、「共時的」という観念を唱えたソシュールは、直線的な時間観念を持っていた。(それを明らかに示す箇所としては、例えば、ソシュール(小林英夫訳)『一般言語学講義』岩波書店(1972) p. 113参照。)ゆえに、科学的な時間観念を拒否したベルクソンの時間論を、この枠組みに当てはめようとするのが無理だと言ってよいはずである。(なお、私はベルクソンの時間論自体を支持しないので、私自身の時間についての考え方はこの論点に関して中立である。)
posted by 三好 at 04:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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