2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(11) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

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本論文の特徴的な点は、交通論の観点から存在と無の間と過去と現在の間を対比して、生成そして成仏について独自の見解に至っていることである。そこで、著者の生成と成仏についての考え方が正しいかどうかを検討してみたい。

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著者は存在の無の間の生成を単交通であるとして批判し、過去と現在の間の生成を異交通であるとして肯定的に評価する。この思考の過程を追っていきたい。存在と無の間の生成について著者は次のように言う。

ところで、存在と無のあいだには、単交通、すなわち一方通行の様態が想定されるほかない。ここで単交通とは、存在そのものが、無に存在を与えるという、贈与の一方通行を意味する。こうして存在を贈与された側のありようとは、無と存在との混成態、いわば不完全な存在でありつづけるほかない。ありなし間を特権化したとたん、ありなし間の単交通を想定せざるをえなくなり、この世の不完全な存在をさいなむ一方で、完全な存在をあこがれるという構図を、いわば運命づけられてしまうのである。(pp. 187-8)


しかし、この記述にはいくつか疑問がある。第一に、ここで問題にされている交通は何と何の間の交通なのだろうか。最初は存在と無の間の交通に思われるが、論述が進むとそれが(「存在」ではなく)「存在そのもの」と無の間の交通になり(このとき「存在」は贈与されるものとされる)、最後には存在そのものとこの世の不完全な存在あるいはおそらく存在者(「存在を贈与された側」)の間の交通になってしまう。つまり、存在と存在そのもの、無と存在者とがそれぞれ議論の過程ですりかえられてしまうのである。もちろん、この交通において何が通行するのかもきわめて不明確である。

第二に、そもそも議論の出発点において存在の贈与は存在と無の間のことなのだろうか。私はハイデガーやその流れを継ぐ哲学者に詳しくないが、いわゆる「エス・ギプト(Es gibt)」の話で存在を贈与されるのは無でなくて存在者とされていたはずである。また、山田晶の解釈するトマス・アクィナスによれば、在りて在る者つまり存在そのものである神が、存在(エッセ)を分有させるのも、本質を持つ被造物である。(参照、山田晶『在りて在る者』創文社(1979) pp. 24-6.)さらに山田によれば、否定神学の伝統では、神が存在を超えた非存在とされていた(同p. 120)。したがって、存在と無の間の単交通という著者の考え方は、哲学史的な裏づけのない独自のものだと言ってよいだろう。(なお、ここで山田の著作を参照したのは、著者が存在と無の間の生成を論じた別の著作(『ベルクソン』岩波書店(2006) p. 9)でその存在理解の有力な指針としてあげていたからである。)

第三に、「無と存在の混成態」とは何か。存在と無が混ざり合うとするのは、非常に奇妙に思われるし(どうして存在しないものが混ざるのだろうか)、哲学史的な典拠も不明である。この箇所については非常に大きな困惑を覚えざるを得ない。

第四に、完全な存在にあこがれる構図を「運命づけられる」のはなぜか。理論的には、存在と無の混成態が(あり得るとすれば)純粋な無にあこがれてもおかしくないはずである。例えば、インド思想や原始仏教には人は輪廻転生をしないように解脱を目指すべきという考え方があったと言われるが、それは無へのあこがれの一例と解釈できるのではないか。

第五に、著者の主張を十分に認めても存在と無の間は本当に単交通か。というのも、存在と無の間に生成があれば消滅もあるはずだからである。存在から無への存在の贈与としての生成だけでなく、その反対に無から存在への存在のいわば返還としての消滅をあわせて考えれば、存在と無の間には双交通が成り立っていると言えるのではないか。通行の一方しか見なければ、どんな双交通も単交通に見えてしまうだろう。

以上から、上の引用部分の主張は、哲学史的に出所不明の概念と図式を明確な定義や説明なく使用し、その全体としての整合性も疑われるため、十分に説得力があるとは言えない。

posted by 三好 at 04:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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