2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(10) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

3-2
第二に、風雅つまり芸術は自然を友として新しみつつさびしむことだという主張は、「さびしむ」や「新しむ」の意味が不明確である。まず、「xをさびしむ」とはどういうことだろうか。伝統的な日本語では、「さびしむ」(下二段活用)とは「さびしがらせる」の意である。一方、その現代語(四段活用)としての意味は「さびしく思う」だと説明されることが多い。(なお、「さびしんだ」は「さびしいんだ」の省略形として現れることもあるが、その場合動詞「さびしむ」の変化形ではないので、ここでは考慮に入れない。)著者の「さびしむ」は後者の「さびしく思う」という意味だろうと推測されるかもしれない。しかし、著者のあげる「さびしむ」の例は、死者をさびしむことと過去をさびしむことである(参照pp. 198-9)。人によって語の意味の感覚は違うかもしれないが、私は、著者による「さびしむ」の使用は「さびしく思う」としての「さびしむ」のそれと一致しないと思う。なぜなら、著者の「さびしむ」は過去または過去の対象に向けられるが、「さびしく思う」としての「さびしむ」は現在の対象に向けられるからである。近現代の詩歌から例をあげる。

びりけつになりて我が子が卑屈なるおもざし見せて寄るをさびしむ(小池光)
とよみくる「飛び立つ鳥よ」の歌声に春日さびしむ翼もたねば(小林玲子)
一枚の膜を隔てて愛しあう君の理性を時に寂しむ(俵万智)
棚にある酒壺をさびしむ冬夜かな(吉武月二郎)
虚實なく臥す冬衾さびしむも(野澤節子)
私はさびしむ この力のない生命の韻動を(萩原朔太郎)
…………ひとり寮舎の朝をさびしむ(荒川 宏)


これらの例から言えるのは、さびしく思うことは特に過去と関わるものではないということである。何かをさびしむとき、それは主体が現在の対象をさびしく思うのであり、さびしく思う理由は、理想と現実、他者と自己などさまざまな可能な状態の対比において、主体または主体が関わる対象が何らかの欠如的な状態に現在あることである。例えば「私はわが子をさびしむ」というとき、私はわが子に何か大事なものが欠けていることを知り、それを残念に思っているのであって、わが子がいないことに寂寥感を覚えているのではない。この観点から見れば、「過去をさびしむ」や「死者をさびしむ」という表現は非常に理解しにくいだろう。しかるに、著者はさびしさを孤独感および無常感として解釈し、後者を存在と無の間の単交通でなく過去と現在の間の異交通と結びつけ、それにより無常感を過去へのさびしみと現在への新しみとに分析した。このような著者独特の「さびしむ」の理解は、上記の「さびしむ」の用法から逸脱していると言えるだろう。

次に、「新しむ」の意味も不明確である。著者はその使用例から推測すると、「(何かを)新しいと思う」という意味でその語を使用しているようである。しかし、これはその語形と意味の関係から見ておかしい。「新しい」から「新しむ」を作るように、反対語「古い」から「古む」を派生させると、これは「温し」と「温む」や「緩し」と「緩む」と類比的に、「古いと思う」でなく「古くなる」を意味すると考えられる。また、日本語史的に「あたらし」は「あらたし」から生じたものだが、後者の動詞形「あらたむ」は「新しくする」を基本的に意味する。とすれば、「新しい」から派生した「新しむ」も「新しくなる」や「新しくする」を意味するはずである。さらに、「新しい」は本来、「さびしい」と違って、対象の主観的な見かけではなく時間的な変化に基づく客観的な状態に依存するだろう。都市風俗ではなく自然現象について当てはめるならなおさらそうだろう。そうだとすれば、「新しむ」は主観的な感情を伴う態度を意味することができず、過去への心情と現在への心情を対比させる意図で「さびしむ」と並べて使用することはできないはずである。

これに対して、例えば「親しさ」と「親しみ」、「懐かしさ」と「懐かしみ」などの対比から、「…み」の形の名詞には情緒的な含みがあり、それから派生した「…(し)む」の形の動詞には主観的な意味が生じるという反論があるかもしれない。しかし、例えば「赤さ」に対する「赤み」から「赤む」、「丸さ」に対する「丸み」から「丸む」または「丸める」、「高さ」に対する「高み」から「高む」または「高める」、「明るさ」に対する「明るみ」から「明るむ」などを派生させても、特に主観的な意味はこれらの動詞に付け加わらないだろう。ゆえに、「……み」の形の名詞から派生した「…(し)む」の形の動詞が常に主観的なものになるわけではないと言える。それに加えて、「新しむ」に関しては、上でも触れたように対義語から派生した「古む」と同義語から派生した「あらたむ」が明らかに主観的でない。これらのことから、「新しむ」は「親しむ」や「懐かしむ」のような心情的な態度を表す動詞にはならないと考えられる。

これは素朴な感想だが、これら「さびしむ」や「新しむ」などの日本語表現レベルで不正確さや強引さが見られることは、著者の議論の根本的な部分が成り立っていないことを示唆しているように私には思われる。

3-3
第三に、風雅つまり芸術は自然を友として新しみつつさびしむことだという主張は、芸術的創造を一般的に説明しているか疑問である。というのも、第一に日本の芸術史の中に自然を友とすることを拒否した流れがあるからである。例えば、「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」(鮎川信夫)という詩の一節に象徴されるように、日本の戦後詩は花鳥風月的な自然詠を厳しく批判した。他にもマルクス主義的なものや抽象芸術やあるいはポップアートなど、芭蕉や西行のように自然を友にするとはまったく言えない流れがある。近代以降の音楽・演劇・舞踏にも同じ傾向が見られるだろう。第二に「自然を友として新しみつつさびしむ」ことは、長詩・長編小説、交響楽やオペラ、そして大画面の絵画のような大作の創作には必ずしも当てはまらないのではないか。これらの大規模な作品を製作する過程に必要なのは、長期間にわたって持続する意志と技術的な目的手段関連に基づく計画性、言い換えれば、力強く将来に向かう自律的で建設的な態度であろう。なぜなら、さもなければ、大量の時間・労力・費用を要するこれらの大規模な作品は完成し得ないからである。ゆえに、「自然を友として新しみつつさびしむ」というように自然環境の変化に対する繊細な感受性を最も重視するのは短歌や俳句などの古典的な短詩形日本文学の発想であり、芸術一般に拡張することはできないのではないかと思われる。
posted by 三好 at 04:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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