2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(8) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

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それから、分類のきめ細かさが十分かという問題もある。通行が方向を持つのであれば、例えばA→BとA←Bという互いに反対方向の単交通は区別すべきではないか。というのも、著者は単交通を「支配の関係、ヒエラルキー」と関連づけているが、そうであれば交通の方向が上下関係を決めることになり、分類上無視できないはずだからである。また、字義通りの「交通」のように、通行が量を持つ場合は考慮しなくてもよいのだろうか。例えば、三車線・四車線等々の帯域の違いや一定時間あたり通る自動車の台数の違いなどが意味を持つこともあるだろう。実際、字義通りの「交通論」ではこれらは重要な意味を持っている。著者の交通論では通行があり・なしの二値しか持たないという限定は、その適用範囲を著しく狭めるだろうと思う。

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さらに、上で触れたあいだ哲学の問題点とも関係するが、この交通論では分析が不十分になる場合がある。例えば、3つのものA、B、Cがあるとき、A→B→Cという交通ではAとCの間は反交通であり、A→C→BではAとCの間は単交通である。単交通を支配関係と結びつけるなら、前者ではAとCの間に支配関係はなく、後者ではあることになる。しかし、AとCの間の上下関係の差はむしろ前者の方が大きいかもしれない。また、A→B→CかつC→Aと、A→B→CかつC←Aとを比較すると、どちらも二項関係としては単交通の連鎖だが、前者は全体が循環しているのに対し、後者はAがBとCに対して上位にある。これらの場合、上記の4種類の交通の分類を当てはめるだけでは分析が不十分になるだろう。さらに視野を広げると、自分自身との交通、つまりA→Aも必要ではないか。例えば、自己言及的なうそつき文や自分自身を要素とする集合(A = { A })、あるいは自家受粉する植物や自分の重力で崩壊する大質量天体や自分の出力からフィードバックを受ける自己制御システムなどがそれに該当すると考えられる。

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上の定義における哲学用語の使い方にも疑問がある。「異交通とは、異質性を保持しつつ、さらなる異質性を生成させる様態」とあったが、しかし様態はそれを支える基体ないし実体を必要とする。つまり、様態は常に何かの様態でなければならない。しかし、xとyの間には必ずしもそのような存在は想定されていない。例えば、「日本とシンガポールの間には自由貿易協定が締結されている」で「間」は何の対象も指示しない。(「日本とアメリカの間には太平洋がある」と比較せよ。)したがって、上の定義で異交通は何の様態かまったくはっきりしない。おそらく、ここは「様態」ではなく「関係」と言うべきだろう。これに対して、異交通等は交通または通行の様態だという反論があるかもしれない。しかし、そう考えると交通や通行を、様態を担う基体や実体のような支持体として扱うことになる。すると、xとyの間だけでなく、xと「xとyの間の交通」の間も考慮しなければならなくなり、無限後退に陥るとともに著者の議論に多くの矛盾を生じることになるだろう。

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最後に、定義に使用される表現がきわめて曖昧で、それにより多くの疑問点が生じる。まず、そもそも著者の言う交通において何が通行するのか。これがはっきりしなければ、交通論は理論ないし枠組みとして使いようがない。また、通行の定義が明確でないため、いわば道があって通行がない場合とそもそも道がない場合とが区別できない。それから、通行がその出発点や到着点の異質性をなぜ変化させるのか。あるいは、なぜさらなる異質性を生成させるのか。著者の言う通行が因果的な結果を生じるものを意味するのであれば、それは作用や影響と称すべきであろう。どうして著者は関係と作用でなく間と交通と呼ぶのか。また、実体(または観念、概念など)の本質や属性よりも実体間の関係を重視することは、少なくとも近代以降では哲学的な問題へのアプローチとして常套手段の一つと言ってよい。著者の考え方のどこが新しいのだろうか。これらの点の実質的な説明がないことが、あいだ哲学と交通論を非常に理解しにくいものにしている。もちろん、異質性とは何かも明らかでない。観点のとり方によって2つのものが異質な場合も同質な場合もあり得る。例えば、東京大学と京都大学は話される方言が東京弁か京都弁かという点では異質だが、話される言語が日本語であって英語でないという点では同質的である。さらに、方向の定義もはっきりしない。字義通りの意味での交通においては、通行は人や物資の移動なので、それらの移動方向が通行の方向である。しかし、著者の言う交通ははるかに広い意味で使用されているので、同じようには行かない。例えば、「存在そのものが、無に存在を与えるという、贈与の一方通行」と著者が述べるとき、存在から無への方向が意味されているようである。しかし、ここで贈与という表現は少なくとも日本語上では比喩的であって、同じことを、無が存在を奪うと言い表してもよいかもしれない。このように表すと、無が存在に働きかけているのだから、無から存在への通行と見てもよいことになるだろう。通行を一般的に考えれば、熱の移動方向と冷たさの移動方向、利益が移転する方向と損失が移転する方向、ものを見るときの目からものへの視線の方向とものから目への反射光の方向、やや特殊だが電流の方向と電子の運動の方向などのように、同一の現象でも何が通行すると見なすかによってその方向が反対になる場合が少なくない。これらの曖昧さが著者の交通論を、少なくとも著者以外の人にとってはほぼ応用不可能なものにしている。
posted by 三好 at 04:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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