2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(7) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

2
2-0
次に、交通論について。著者の言う交通および交通論とはどのようなものか、そして交通論はどのように評価できるかについて検討する。

2-1
交通とはどのようなものか。著者の言う「交通」は著者独自の用語であり、次のように断片的に説明されている。

ここでいう反交通とは、他者との交通遮断、過去との交通遮断をいう。(p. 186)

ここで異交通とは、異質性を保持しつつ、さらなる異質性を生成させる様態をいう。(p. 187)

ところで、存在と無のあいだには、単交通、すなわち一方通行の様態が想定されるほかない。ここで単交通とは、存在そのものが、無に存在を与えるという、贈与の一方通行を意味する。(p. 187)


それから、他の著作には次のような説明がある。

間には四とおりの交通が考えられるように思われるのだ。まず第一に一方通行の関係、それを単交通と呼ぶことにしよう。これは支配の関係、ヒエラルキーと重なってくる。第二に相互交通的で双方向的な関係、それを双交通と呼んでおこう。第三に、交通を遮断するような関係も考えられるから、それについては反交通の名を当てるとして、最後に、相互の異質性を保持しながら行われる交通、それを異交通と呼ぶことにする。(篠原資明『トランスエステティーク――芸術の交通論』岩波書店(1992) p. 17.)


これらをまとめると、交通は2つのものの間における何らかの様態かつ関係であり、単交通・双交通・反交通・異交通の4種類がある。さらに詳しくは、交通は何らかのものの通行であり、反交通の定義からそれぞれの通行は少なくともあり・なしの二値があり、単交通と双交通の違いから加えて2つの方向と0あるいは1から2のいわば車線を持ち、異交通の定義からその間に交通が成り立つ2つのものの異質性に変化を生じさせることがあると考えられる。そして、交通論とはこのような交通についての理論ないし議論だと言えるだろう。

2-2
2-2-0
では、このような交通論はどのように評価できるだろうか。私は、それは正しい考え方ではないと考える。その理由は、「交通」の定義に以下のような問題があるからである。

2-2-1
まず、引用箇所の4種類の交通の定義は可能な場合を網羅していない。明らかに、「相互の異質性を保持しながら行われる」異交通があるなら、少なくとも相互の異質性を保持しない交通もあるからである。さらに、2つのものが異質だけでなく同質でもあり得るとすれば、相互の同質性を保持する交通・相互の同質性を保持しない交通もあるはずである。これらに加えて、同質性も異質性も保持する交通や、同質性も異質性も保持しない交通などもあるかもしれない。そしてもちろん、異交通を「異質性を保持しつつ、さらなる異質性を生成させる様態」と捉えるなら、交通のバリエーションはさらに増える。なぜなら、異質性を保持するかどうかという条件に、さらなる異質性を生成させるかどうかという条件が加わるからである。これらのすべての可能性を含んでいないため、上の定義は網羅的なものではない。

2-2-2
次に、4種類の交通の定義が相互に背反的でない。明らかに、単交通または双交通と異交通は同時に成立可能である。一方通行か双方通行かという条件と異質性を保持するかどうかという条件とは独立だからである。交通の4種類の中で異交通だけが異質であり、それに対する十分な手当てを欠いていることが、交通の分類に不備をもたらしている。そのため、交通論は少なくとも具体的な問題に適用することが困難であることが予想される。(また、これは用語の問題だが、通行のある場合を「単交通」・「双交通」と言うのなら、通行がない場合は「反交通」より「無交通」と言う方がわかりやすいだろう。「反交通」はむしろ「順交通」や「正交通」と対をなすだろうからである。)
posted by 三好 at 04:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/230735926
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。