2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(6) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

1-2-2
第二に、著者の論述とは異なり、「間」は常に2つの項をとるとは限らないからである。例えば、「イギリス・インド・中国間の三角貿易」や「多国間交渉」などのように、2つ以上の項または不特定多数を意味する項を取ることがある。その反対に、「数学の授業の間に彼は国語の宿題を済ませた」のように1つの項しか取らない場合もある。それに加えて、「日本人の間でもスマートホンが普及しつつある」のように、不特定多数を意味する項を取りつつ直接には間隔や関係の意味を持たない場合もある。ゆえに、著者があいだ哲学の取り扱う範囲を2項しか取らない「xとyの間」に限定しているのは、恣意的に適用範囲を限定していると言える。そして、このように「間」を十分包括的に捉えるならば、あいだ哲学は少なくともきわめて広い意味での関係一般を考察することに他ならず、独自の方法ないし分野としての意味を持つとは思われない。

これに対して、哲学的に重要な対概念を取り出してその間を考察することには探求にとって実践的な意義がある、という反論があるかもしれない。しかし、これに対しては、やはり実践的な観点から、次の二つの再反論が可能である。第一に、諸概念は対あるいは二項対立ではなくネットワークをなしているのであり、その中から2つずつ取り出すことは他の概念を見落とす結果になりかねない。実際、著者は存在と無の間を論じても存在と存在者の間には言及していない。生と死の間に触れても生と未生の間は語っていないし、過去と現在の間を見つめても現在と未来の間は視野の外である。これらは分析の対象を2つずつペアにしてのみ考えることの弊害であろう。第二に、ネットワークと二項関係の対比からわかる通り、これは一種の全体から部分への還元主義であり、哲学における一般的な方法として使用するにはもっと強力な正当化を必要とする。もちろん、形式的な観点からは、例えば、グラフ理論ではネットワークは任意の2つのノード間の関係の束として定義可能だというようなことがある。しかし、視野を広く取って、例えば細胞や器官の集まりとしての個体や、個人の集まりとしての社会や国家を扱うときには、その中の2つの構成要素の間を調べる方法は、何らかの意味での全体論を支持する哲学者や科学者によって不十分だと考えられるだろう。逆に、個人や個体ではなく2つのものの関係に止める点で、個人主義や個体主義からの異論もあるだろう。また、物理のように3つ以上の物体を含む系の問題が理論的にほとんど解けない領域もあり、この場合にはその中の要素を2つずつ取り出しても解決には結びつかない。これらの観点から見れば、著者のあいだ哲学は適用範囲が狭いという理論的な欠点を持つと言える。

1-2-3
第三に、あいだ哲学で使用される「間」はかなり比喩に近いからである。「間」のもともとの意味は、古語辞典によれば次のようなものとされる。

空間について、二つの物が近接して存在する場合、それにはさまれた中間の、物の欠けて脱けているところをいうのが原義。……。時間に転じては、鳴く鳥の声、波・雨の音などの中断する時。人間生活では休日、恋人と逢えずにいる時など。ついで、ある限られた持続的な時間・期間をいい、ホド(程)に接近した。……。院政初期頃から、間柄の意味から関係をいうに至り、理由を示す接続助詞のような用法を展開した。(「あひだ」大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店(1974) p. 47.)


したがって、空間的なまたは時間的な距離ないし人間関係を意味するのではない「存在と無の間」や「死と生の間」などは比喩的な表現に近い。いいかえれば、これらは本来適用可能でない対象に「の間」を適用して得られる表現である。ゆえに、これらは合成的な表現であるにもかかわらず、全体として何を意味しているのかが文法的に十分明確に決定されない。これからそれに向けて哲学的探求を行う主題に対して「間」表現を用いる場合には、いっそうその傾向が強いだろう。よって、これらの表現を使用すると、むしろ思考や議論を曖昧化し、多くの擬似問題を生み出す恐れがある。したがって、問題設定のためであれ分析ツールとしてであれ、「間」表現を積極的に哲学的な議論に用いるのは望ましくないと言える。

1-2-4
第四に、反対に字義的な意味での「間」は日常的な表現であり、哲学的に特別な意味を持つものではないからである。すなわち、日常的に使用される「の間」は「の上」「の下」「の内」「の外」「の前」「の後ろ」「の隣」「の向かい」等々と抽象度においてまったく同等のものであり、よって「うえ哲学」「した哲学」「うち哲学」「そと哲学」「まえ哲学」「うしろ哲学」「となり哲学」「むかい哲学」等々が成立しないのなら「あいだ哲学」もまた成立しないと考えられる。これに対して、「あいだ哲学」は単独の対象ではなく複数の対象に関して「xとyの間」を考察するから特別だという反論があるかもしれない。しかし、上で述べたとおり、「の間」は2つに限らず任意の数の項を取れるし、また「の上」「の下」等々も「xとyの上」「すべてのxの下に」等々というようにやはり複数の項(または複数を意味する項)をとれる。したがって、「の間」だけが特別とは言えない。ゆえに、この意味での「あいだ」を用いるあいだ哲学には重要な意味があるとは言えない。

1-2-5
第五に、探求の順番から言って、xとyの間よりもxまたはyそのもの自体の方が先だからである。例えば、存在と無の間について考察するためには、その前提として存在と無についての知識が不可欠である。というのも、「存在」の意味と「無」の意味がわからなければ、「存在と無の間」の意味もわからないからである。とすれば、存在と無の間よりも存在と無を解明することが先決問題である。しかるに、現在の哲学で、存在とは何か、そして無とは何かについて、多くの哲学者の意見が一致するほど十分解明されたとは言い難い。このような状況で、存在と無の間を探求することは正当なやり方ではないだろう。一般にxとyが明らかにならなければxとyの間も明らかにならないということから、あいだ哲学の可能性に疑問を持たざるを得ない。さらに上で論じた「間」表現の多義性と比喩性を考慮に入れれば、「間」表現を主要な手がかりにした哲学的探求はいっそう実りの少ないものと判断される。以上の議論から、あいだ哲学には哲学的な方法ないし分野として優れたものではないと私は考える。
posted by 三好 at 04:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。