2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(5) (篠原資明「あいだ哲学論考」)



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本論文は、人間の存在にとって存在と無に対する関係よりも現在と過去に対する関係を重視する立場から、自然と親しく交わりながら過去をさびしく思いつつ現在の新しさを感じ取り、その結果自己の状態を変えるような態度を芸術家のあり方として望ましいものと説き、過去のすべての現象を自分の現在に結びつくものとして捉える態度を最もよいものと主張している。本論文のプラス面は、17世紀以降のヨーロッパの美学について多少の知識を得られることである。マイナス面は、言語表現が非常に曖昧で、かつ推論のステップが不明確である上、論旨が一貫しておらず、そのため個別の主張および全体の内容がきわめて理解しにくいことである。以下、私に疑問に思われた点について検討していきたい。最初に、著者の議論の基礎にあるあいだ哲学と交通論について考える。

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最初に、あいだ哲学について。あいだ哲学とはどのようなものか、そして、それは哲学の方法ないし分野の一つとしてどう評価できるかを検討する。

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あいだ哲学とはどのようなものか。タイトルが「あいだ哲学論考」であるにもかかわらず、本論文に「あいだ哲学」とは何かにかんする説明がない。「あいだ哲学」と著者が呼ぶものは、私の知る限り、著者一人が唱えているものであり、著者を離れて広く共有されているものではないので、この点は不親切だろうと思う。そこで著者の他の本を参照すると、次のような記述がある。

〈あいだ〉とは、たとえば過去と現在、生と死、人と人などの〈あいだ〉であり、わたしのいう〈あいだ〉は、扱う問題次第で、どんなものの〈あいだ〉をも指す。(篠原資明『ベルクソン――〈あいだ〉の哲学の視点から』岩波書店(2006) p. iii.)


私が著者の書物を読む限りでは、これ以外にあいだ哲学とは何かについての明確な手がかりはないようである。そこでこの引用部分と著作全体の論旨から考えると、あいだ哲学とは、任意の2つの対象xとyがあるとき、一般的なまたは日常的な意味でのxとyの間を考察する哲学だと言えるだろう。(三角カッコ〈〉は、傍点や下線と同様の語用論的な強調だと解する。)

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では、このようなあいだ哲学は哲学の方法ないし分野の一つとしてどのように評価できるだろうか。私は、それは高く評価できないと考える。その理由は、第一に「xとyの間」という表現は、著者も認めるように、非常に多義的だからである。それはxとyに何をとるかによって、さまざまな意味を持ち得る。例えば、「新幹線は東京と品川の間で止まった」で「の間」は地理的な間隔またはその中の一地点を意味するし、「1校時と2校時の間に宿題を済ませた」では時間的な間隔またはその中の一時点を意味するだろう。また、「日本と中国の間にはまだ自由貿易協定がない」では日本と中国という2つの項をとる後置詞句または動詞句の一部であり、機能的な意味しか持たないだろう。さらに、「ヒトと他の霊長類の間には大きな違いがある」ではおそらく概念または述語間の高階の関係を意味し、「仲人が新郎と新婦の間を取り持った」では具体的な人間関係またはそれに関わる事柄を意味するだろう。したがって、これら雑多な意味を持ち得る「間」への着目が分析のための統一的な方法を与えることはないし、同時に一つの分野としてまとめることも研究上の観点から見て適切でないと考えられる。
posted by 三好 at 04:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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