2011年10月17日

間・交通・生成・芸術・成仏(1) (篠原資明「あいだ哲学論考」)

間・交通・生成・芸術・成仏
篠原資明「あいだ哲学論考」
(『岩波講座 哲学〈1〉いま“哲学する”ことへ』岩波書店(2008) pp. 182-203.)

内容

一 淋しさが押し寄せてくる
二 無常と生成
三 新たな風雅論へ
四 風雅モダニズム
五 成仏と生成


評者による要約([]内は評者によるコメントまたは補足です。)



坂本賢三はフランシス・ベーコン[哲学者]が理解されていないことを嘆いたが、西脇順三郎はベーコンを高く評価していた。ベーコンは人間の悟性を記憶力、想像力、理性の三つに分け、それぞれに歴史、詩、哲学を割り当てた。ベーコンは想像力のうちに「自然が結んだものを離し、離しているものを結ぶ」能力を見た。西脇はそこに自然や現実の関係を破壊し、新しい関係を創出する能力を見てとった。また、ベーコンの詩論はダダやシュールレアリスムの詩の中に実現されているともいった。それだけでなく、ベーコンの進歩主義も西脇は受け継いでいる。

西脇にはもうひとつの側面がある。西脇は存在自身の淋しさに言及する。『旅人かへらず』の一節では、デカルトの「我思う故に我あり」が、「淋しく感ずるが故に我あり」へとパラフレーズされている。「淋しさ」の思想について、同書の「はしがき」には「永劫」について「無とか消滅とかに反対する憧憬ではなく、寧ろ必然的に無とか消滅とかを認める永遠の思念」のことだと書かれている。このような意味での永劫は、日本人が古来「さび」という語に託してきたものに重なり合う。というのも、「さび」には、無常という意味の奥に、無常ならぬ永遠なるものへの思いがこめられてきたからである。心敬の「ひえさび」の思想がよい例である。心敬の「ひえさび」とは、無常なる水のありように心を寄せつつも、その奥に氷のような永遠を凝視するものだった。しかし、同じ氷が水にもなれば、同じ水が氷にもなる。氷と水は超越的な関係ではなく、流動的な関係にある。
posted by 三好 at 05:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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